新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 03-8 「安保と憲法で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から新シリーズの通算第12回、高度経済成長期に入る手前の昭和29年に、鳩山一郎内閣が登場した後の話から始まります。

この鳩山一郎内閣が登場したことによって、日本は国際舞台への復活を目指そうとしました。この鳩山一郎氏で、皆様が思い起こすのが「日ソ共同宣言」があまりにも有名ですよね。それについて、おまけがついてくるのが、「国際連合」の加盟です。この「日ソ共同宣言」により旧ソ連邦が、加盟を促したことから悲願を達成することができたわけです。
そのために、日本も政党の集中・集約が行われるようになります。革新政党である「日本社会党」が左派右派分裂状態(その起こりは「単独講和」か「全面講和」かの対立が生じる昭和26年)から、統合にかじを切ったこと、いわゆる革新派が共産党を除いて、一つにまとまったことから、保守層からは「革新派の合一は、保守層にとって危機的な状況」だと、考えておりました。
そこで、保守合同への流れが加速していきます。それが、あの有名な、
「陰十四菊」の印象があるマークを掲げた「自由民主党」です。そして、この代表として鳩山一郎氏が内閣を引っ張っていきます(当時総裁はなかったそうです)。
このころから、東京裁判で不起訴処分となっていたA級戦犯の岸信介氏(のちに「安保問題」で舵を取ることになります{これについても今後触れます})が釈放されて行きます。
実は、最大級の外交問題が、日本とソ連邦との平和条約の締結、これが当初は最大の問題でした。これに関しては、北方領土の問題です。具体的に言うと、北海道の東北端にある北方4島の返還ということになります。
その4島とは、歯舞諸島、色丹、択捉、国後島の順番です。根拠となっているのは、今から150年前の「日露和親条約」です。この当時、日本と、旧ソ連の前となるロシア帝国との間で締結した条約です。この時の国境線を、日本政府は主張しております。
ここで、記している年号の1855が、「日露和親条約」の国境ラインです。ちなみに、この当時議論されていたのが、サハリンは国境は、今後の政府協議によるものとして、棚上げし、明治8(1875)年に「千島樺太交換条約」を締結したことにより、千島列島を日本、サハリンをロシアが所有とすることで決着しました。
スターリンが主張していた「”日露戦争”で千島が領有となった」は、誤りだったことがこの状況からも分かってきます(日露戦争は、明治37【1904】~明治38【1905】年までのために、30年のずれがある)。

その鳩山一郎氏が、この問題に取り組んだ最大の理由は、終戦直後から続く「シベリア抑留問題」が背景にあります。中国東北部に在住していた日本住民を、強制連行したあの事件です。そのことも背景にあって昭和31年10月に、旧ソ連を訪問して当時のブルガーニン首相と会談を行って、国交正常化を盛り込んだ「日ソ共同宣言」を発信するし独自外交を展開していきます。

その間、鳩山一郎氏は内閣を挙げて、ある問題にも取り組んでおります。それが「憲法改正」ですが、それは、次回の「03-9」に回します。次回をお楽しみに。それでは。