吉野と都を結ぶ糸ありて 08(再び吉野へ 19)

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「再び吉野へ」より改題しました「吉野と都を結ぶ糸ありて」の第8回になります。

さて、私と「しまかぜ」氏は、当時の伽藍内にいるのですが、
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中に入るのですが、こちらではなく、向かい側の売店を兼ねた入り口から入りました。すぐに入ると、
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これは、芽吹くまであと少しですね。さて特別展示の会場に向かいます。
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最初は、講堂から入ります。
講堂の中は、5仏と5菩薩が安置されており、その配置から「立体曼荼羅」と呼ばれております。なぜに「立体曼荼羅」なのかですが、この曼荼羅のこの図をご覧ください。
元々、真言宗を中国「唐」で学び、習得してきた弘法大師空海は、通常の遣唐使の10分の1ほどのスピード(実際に、土木技術も習得していて、それをもとに、徳島県の溜池修繕工事を行っております)で、帰国します。
この時点で、弘法大師空海は、筑後、和泉国などの地域の寺院で、謹慎を命じられることになります。
実際には、桓武天皇治世から、「薬子の変」を経て、嵯峨天皇の治世へという、いわゆる律令制度再建期に当たる時代になります。ちなみに、本年は高野山開山1200年の節目の年ですが、実際に空海が生きていた時代は、混乱の真っ只中の時代でもありました。
そのような中で、加持祈祷を行う宗教集団が、貴族の間で求められていた時代でもありました。その中で、当時の超大国「唐」からもたらされた密教は、多くの政治家、官僚から求められる最新医術及び、占いの要素があったわけです。
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故に、空海が「唐」で習得した「密教」を、広めるために「遣唐使」期間を前倒しで(実際に18年も前倒し【ある意味すごい!】)、日本に帰還したのか、あるいは、誰かが帰還させたのか…。それを解くカギは、西安にある青龍寺にあります。当時の「密教」総本山の青龍寺には、最高座主の阿闍梨恵果という人物がいたのですが、彼に師事を仰いだのです。しかし、師事を受けている途中で、恵果自身が病に倒れ、息を引き取るのですが、全弟子の代表として空海本人が、和尚を顕彰する碑文を起草しています。
「この世の一切を遍く照らす最上の者」と空海をたたえた恵果は、もはや教えることは何もないという心境、そして最大、最良の弟子と思っていたのかもしれません。
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彼が、密教の文化を、日本に届けたことを考えると、この立体曼荼羅は、多くの人々、特に、庶民に密教の意味を、広く伝えるという役目を持っていたことになります。
本日は、この講堂の説明だけでしたが、続いては、「金堂」に移り説明を続けます。それは、「09」にてお届けします。お楽しみに。
それに、この話のタイトルである「吉野」とのつながりを見ていくことになります。それでは。