新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 04-3 「安保と憲法で揺れた時代(安保闘争編)」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から新シリーズの第17回、岸信介内閣の中では本当の意味で、正念場となった「安保闘争問題」に触れます。今回は前編です。

さて、実際に昭和26年に締結された「日米安保条約」が吉田内閣の下で締結された後、情勢が少しずつ変わってきておりました。実際に、昭和32(1957)年以降に、米ソの対立は核開発から、宇宙開発競争へ変わりますが、翌33(1958)年11月から日本国内では、「皇太子【今上天皇】の正田美智子様婚約」による「ミッチー・ブーム」に沸いていました。しかし、その中で、政治では岸内閣を中心に「日米安保条約」に代わる新たな「安保条約」が必要だと言う論調が、日に日に高まってきたのです。

昭和30(1955)年に鳩山一郎内閣時の重光衛外相が、昭和32(1957)年にも岸信介首相(外相兼任)が、アメリカ合衆国に対して「日米安保条約」の改定を打診してきたことからも、日本政府側が条約改正に本気であることを示しておりました。その中で、昭和34(1959)年1月にキューバ革命が、3月にはチベットの蜂起がおこったことを受けて、日本政府内の危機感は高まることになります。
これに対して、アメリカ合衆国政府は、「まず先にやるべきことは、憲法改正」という約束を果たせと突き返して平行線となります。
突き返した理由は、再軍備と海外派兵ができるようにするということだったわけです。
ところが、アメリカ合衆国の態度に変化が現れます。昭和32年にソ連で試験を行っていた大陸間弾道弾型ミサイルの成功したことで、日本も狙われる可能性が出てきたという危惧を抱き始め、昭和33(1958)年ごろから交渉に入っておりました。

そんな中で、国民世論は、「安保改正賛成派」と「安保改正反対派」に割れるという事態になるのです。当然のことながら大多数の国民は、「安保改正反対」に回り、
平和団体の一つである、原水協こと原水爆禁止世界大会協会を中心とした一大イデオロギー運動が巻き起こります。
しかし、大陸間弾道弾型ミサイルが、成功した大きな背景には宇宙開発競争の中でソ連が当初、リードしていたことが関係します。それが「スプートニクショック」ですが、影響しているわけで、これによってソ連は宇宙開発で一歩リードという形をとり、それを追いかけてアメリカ合衆国では、衛星などを打ち上げるという競争が続いておりました。そののち、昭和40年代に入ってから形勢が逆転し、昭和44年の「アポロ11号月面着陸」で決着となりますが、それについては、また後ほど。

こういう関係から、アメリカ合衆国にとっては、日本に防衛をできるような体力を持たせることが必要と判断していたのです。そのために、公職に復帰していて右に近かった岸信介首相が交渉相手であったことは、渡りに船だったということになります。

さて、「04-4」の後編では、国民感情が爆発した理由、強行採決に至ったのか、憲法との関係については、に焦点を当て、話を続けます。お楽しみに。