新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 04-4「安保と憲法で揺れた時代(安保闘争編)」

本日の話題の3本目は、「歴史もの」から新シリーズの通算18回に入ってきました。
それで、「安保闘争問題」とんでもないことになっていくのですが、これに関して少し細くしていきたいと思います。

今回は、国民感情がなぜ反対に回ったのか、大まかなところを書いていきます。その話は、さかのぼること1年前の昭和34(1959)年3月、東京地方裁判所で争われた有名な刑事訴訟がきっかけでした。それは、東京都の砂川町で実際に起きた砂川闘争に関連して、「砂川事件」と呼ばれる事件が起きます。
話を簡単に述べますと、そもそも、在日米空軍基地が立川市にあり、その基地拡張のために、砂川町に敷地提供を要請したのが昭和30(1955)年3月、この判決が出る4年前のことです。そして、それから2年の後、調査庁が調査として砂川町を測量しているということに、住民たちが反発。米軍敷地内に7名のデモ隊隊員が入った事から、刑事訴追を受けたという事がきっかけでした。
このシリーズの「3」から述べているのですが、実際に「日米安保条約」(昭和37年発効の旧条約)は「日本国憲法」とは相いれない関係であり、国連憲章では集団的自衛権などの憲法と反した条文があることから、自軍を持たないまでも防衛できる軍備がある日本に、占領軍として駐屯する在日米軍との矛盾が、「砂川闘争」の本質とみる所もあります。
実は、この「砂川事件」裁判は、東京地裁、東京高裁を経て最終的には最高裁まで争われ、決着するのは事件から8年がたった昭和38(1963)年、再度審理されて、7人に有罪判決が確定し罰金2000円(当時としては高額)が科せられる結果となりました。

その東京地裁が初めに下した判断は、「日本政府がアメリカ軍の駐留を許容したのは、指揮権の有無、出動義務の有無に関わらず、日本国憲法第9条2項前段によって禁止される戦力の保持にあたり、違憲である。したがって、刑事特別法の罰則は日本国憲法第31条デュー・プロセス・オブ・ロー規定)に違反する不合理なものである(原文のまま)」というものでした。このために、被告人の7名は無罪を言い渡されたのです(伊達判決と呼びます)。

これと同じ年の8月には、有名な市川房江、平塚雷鳥(らいてう)などを中心として開催された「第5回日本母親大会」でも、安保改定阻止を採択し、その流れは全国各地の組織に飛び火、国民的な大運動へと波及したのです。
ここで、私事で申し訳ないのですが、私が高校生の頃にその「安保闘争」についてお話ししてくださった日本史の先生がいたのですが、当時の様子を語ってくださいました。
彼が言うには、当時の子供たちの間でも、意味が分からないまま「安保反対!!!」と叫んでいたそうです。その方は、私の父親と同じ世代だったと思います。しかし、その中で、暴徒化したデモ隊も中にはいたようです。
昭和34年11月27日、国会に集まっていたデモ隊の一部が暴徒化、国会議事堂の正門を破って、国会議事堂内に突入するという事態も起こります。
こういった中で内乱条項の削除された「新安保条約」が昭和35年1月に合意を取り付けたのですが、岸信介内閣総辞職までの6か月にわたる闘争は、デモ参加者が13万人(諸説あり)、樺美智子さんの闘争に巻き込まれた犠牲者という記録を残していくことになります。
今回で終了予定でしたが、アメリカ合衆国の対応や、国会論戦についての資料が多く、あと2回延長して、この話を深く掘り下げます。次回の「4-5」では、デモの行われているさなか、国会では何が起こっていたのかについて、それと「ハガチー事件」についてお話ししていきます。それでは。

<<<PREVIEW 04-3  NEXT 04-5>>>