新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 04-5 「安保と憲法で揺れた時代(安保闘争編)」

本日の話題の3本目は、「歴史もの」から新シリーズの第19回、いよいよ「安保闘争」も激しくなってきた昭和35年1月以降に話を戻し、国会の中ではどういったことが起こってきたのかをお話ししていきます。

昭和35年1月19日に締結した後、国会内では条約の成立へ向けて長く苦しい5か月が幕を開けます。この当時の最大革新勢力である社会党は、「条約に対する国会の修正権問題」及び「極東の範囲」(2つとも条文内にあるもの)について、追求し紛糾。
この理由は、改定により日本が戦争に巻き込まれる危険が増す、及び、在日米軍裁判権放棄密約から派生する在日米兵犯罪免責特権への批判という事が背景にあったとされていたためです。
紛糾した後、ほとんど審議せずに、5月19日に強制可決。そうなったのですが…事態は、思わぬ方向に向かいました。革新勢力である社会党、共産党は議論もできぬまま、自民党の強行を許してしまうことになりました。外では、その事態に抗議した民衆たちが抗議運動を展開していたのです。
理由は、大まかに言うと3点ほどありました。まず、一点目は昭和35年当時、まだ第二次世界大戦終結から日が浅く、人々の「戦争」に対する拒否感が強かったこと、終戦から15年しか経っていなかった中での反応としては、当然のものであったわけですから、ここは汲むべきところだったといえます。2点目は、東條内閣の閣僚であった岸本人への反感があったことです。これは、東条内閣の時に商工大臣として昭和16【1941】年10月に入閣、その後、軍需大臣となった記憶が残っていたことも影響しておりました。3点目は、「安保は日本をアメリカの戦争に巻き込むもの(在日米兵犯罪免責特権への批判もあり)」という考え方があったことです。これは、「日本国憲法」の前文が根拠となります。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した(一部抜粋)。

これは、平和に対する冒涜であるという意識としてとらえていた当時の国民が、反対するのもわかります。
そんな中で、衆議院を翌5月20日に通過した「新安保条約」の阻止のために、5月21日、抗議集会が激化していきます。そのあと、26日に国会周辺を15万人ものデモ隊が包囲するという事態に陥ります。
これは、自然成立の前の6月18日の画像ですが、どれほど大きかったのか、これでもよくわかるかもしれません。
そういった中で、国会内でも論戦が続き、岸信介首相の「声なき声を聴け」発言で国民とのかい離が一層如実に表れていきました。そして6月8日に参議院で論戦が、強制的に開始され、2日後の6月10日には、ジェイムス・ハガディ大統領補佐官がアイゼンハワー大統領との日米首脳会談の下調べのために来日。
ところが、改定反対を叫ぶデモ隊が彼を取り囲み、結局、米軍海兵隊ヘリでだしゅつする羽目になったことが転機となります。これが「ハガチー事件」と呼ばれる事件です。

ということで、次回「4-6」では、最後のあがきともいわれる「ハガチー事件」後の攻防戦をお話ししていきます。それでは。