新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 05-1 「経済成長と憲法で揺れた時代」

本日の話題の3本目は、「歴史もの」から新シリーズの第5回です。今回からは、池田勇人氏をクローズアップしていきます。

この時代は、経済が重要な時代でもありましたが、政治でも動きがなかったというわけではありません。「安保闘争問題」の収集で、内閣総辞職を行った岸信介首相に代わり池田勇人氏が、組閣を開始したのが昭和35年7月19日のことです。
さて、このお方は戦後混乱期の中で、一人の人物と会見しております。当時の吉田茂氏が率いた内閣で、大蔵大臣に当選一期でありながら入閣という異質な抜擢人事で、政治の表舞台に出たお方でした。

しかし、もともとをたどると、大蔵省の官僚、すなわちお役人さんであり、財政政策のエキスパート的な存在でした。そんな彼が、政界入りしたのが昭和24年、当時はまだ財政運営が厳しい状況のさなかだったのです。実は、吉田茂内閣で同じ時期に接していた人物がいます。のちに紹介する予定の佐藤栄作氏です。
彼とのかかわりは、偶然とはいえ、たまたま旧制高校の試験で名古屋の下宿で、偶然同じ部屋となったことがきっかけだったそうです。

実は、佐藤栄作とともに接点があるのは、この昭和24年ごろで民主自由党(自民党の正式名称の文字をひっくり返したものですが当時あった政党です)に入党することになります。

実は、コネも持たず、「財務官僚」という肩書を持っていただけの池田勇人氏が、内閣に抜擢された後、経済系列閣僚を歴任することになります。特に迷言(失言)として名高いのは、第3次吉田内閣時代の『貧乏人は麦飯を食え!』発言でしょうか、これも物価などの経済大臣を歴任した後に、貧乏な時代だからこそ出てしまった言葉といえるかもしれません。

さて、前置きはこのくらい…ではなく、このことを押さえておくと、次のインタビューの意味がよく分かってきます。

昭和41(1966)年に刊行された伊藤昌哉氏の著作『池田勇人 その生と死』の中に、収められた記述によると、

インタビュー「総理になったら何をなさいますか?」
池田勇人氏「それは経済政策しかないではないか、所得倍増で行くんだ!」

と答えております。これを伊藤昌哉氏はこのように分析しております。「彼(池田勇人氏)は、低姿勢で接するのだが、それは本心ではなく、低姿勢をとることで、政治家として成長を遂げる力となった。」と。
これは、池田勇人氏が首班となった内閣にも徹底されることになります。そのスローガンこそ「寛容と忍耐」で、まさに、話し合いをもとにした政治運営をして行こうと考えたわけです。

ところが、その時代は思わぬ方向で非難が噴出していきます。文部大臣の荒木万寿夫氏が国会答弁で、「日教組」を非難するという事態が発生します。これが9月29日ですが、それよりも深刻な事態が起こるのです。それが、この写真。
日本社会党の党首浅沼稲次郎氏が、演説中に右翼の青年に刺殺されてしまうという事件が発生し、その責任を取って国家公安委員長の山崎巌氏が辞任する事態に発展していったのです。この事件発生が10月12日と、混乱は収まっていなかったのです。

そんな中で、池田勇人氏は「寛容と忍耐」を、どのように実践していくのでしょうか…。そして、それが「所得倍増計画」へと向かっていくのです。次回は「5-2」から、その当時の社会状況、特に「三池争議」にも関係してくるのですが、昭和35年のエネルギー革命の過渡期などを見ていきます。