新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 05-4 「経済成長と憲法で揺れた時代」

さて、本日の話題の3本目、最後の記事は「歴史もの」から新シリーズの第25回、池田勇人氏の時代の外交についてみていきます。

国民からの猛抗議並びに野党の追及で、成立後力尽きた感のあった岸信介内閣は、アメリカ合衆国との同盟とを重視しており、中華人民共和国とは強硬な姿勢をとる内閣であったわけですが…、果たして池田内閣はどうであったのか、そこから話を始めます。
60年安保闘争が終結してから1年後の、昭和36(1961)年6月、自衛隊の性格と、行動などを規定した「防衛2法」こと、「自衛隊法」と「防衛庁設置法」が改正の上で公布されることになります。
これは、自衛隊の規模を固定化したものですが、規模を拡張する場合は、「自衛隊法」自体の改正が必要となり、隊員自体も多く雇用(増員するのが正しい)したい場合は、「防衛庁設置法」の改正が必要となるという、暴走を抑えるために用いた歯止めというものでした。
しかし、これを改正して、1万3500人の隊員を雇用(増員)するうえで、部隊規模の拡張を行っていたわけです。これは、今まで「第1次計画」(昭和32年策定)に、続く計画で、昭和42(1967)年まで続き、その間にミサイル装備品などを増備していきます。

実は、先ほど取り上げた論争を深く掘り下げてみると、当時の国際関係が見えてきます。この年、昭和36年は、世界を震撼させたあの一件の1年前に当たりますが、アメリカ合衆国と旧ソ連邦が、ある程度の緊張感を保ちながらも、何とか歩み寄ろうとした時代でもありました。
しかし、日本では、「嶋中事件」というテロが起こるなど、右左の体制による対立が続き、お隣の大韓民国では、朴正煕少将(第2次野戦副司令官)がクーデターを起こして韓国を「漢江の軌跡」へと躍進させるきっかけを創る人物が登場するなど、様々に動いた時代でもありました。この時にベルリンの壁が建造された時代もこのころです。
つまり、このことを考えると、東西冷戦が加速していくことからすれば、日本の計画は理に適っていたということに結果論としてはなってしまいます。ところが、日本周辺では、戦争という事態にはならず、高度経済成長を続けることができた由円だったといえます。
翌年には、キューバ革命後のキューバで、旧ソ連製の中距離ミサイルが配備されていたことから起こった「キューバ危機」で一触即発という緊張状態に陥ったものの、昭和35年以降は、日本周辺は平和的な流れで推移しておりました。
ということで、次回「05-5」では、アジアの国々との関係、及び東京五輪について、お話しします。それでは。