新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 05-5 「経済成長と憲法で揺れた時代」

本日の話題の3本目は、「歴史もの」から新シリーズの第26回、池田勇人氏が内閣総理大臣として政務を務めた4年間は、国内政策が注目を集めていた頃でもありました。しかし、外交でも成果を上げておりました。主な二つを挙げるとすると、アジアの国々との関係の回復に一役買い、且つ後の日中国交回復と平和条約締結に向けての一石を投じた事、そして、東京五輪の成功という大イベントがそれに当たります。

それでは、1つ目のアジアの国々との関係回復に一役買った出来事として、昭和37(1962)年の「LT貿易」を上げておきます。
「LT貿易」のLTは、合意した時の人物の名称です。元通産大臣、現在の経済産業大臣に当たる高橋達之助氏と、中華人民共和国代表の廖承志(当時は、アジア・アフリカ連帯委員会主席)との間に結ばれた私貿易のことをさしております。
ちなみに、承志氏は日本生まれ日本育ちという日本と大変関係があるお方で、「江戸っ子」気質丸出しのべらんめえ口調で、話すことができるなど、今後の日中国交関係や、平和条約関連などで、活躍しております。

それでは、この話の背景に何があったのかといいますと、実は、中華人民共和国の成立と関係する「第2次国共紛争」に触れなければなりませんが、4年続くこの戦争は、昭和25年の「朝鮮戦争」と絡んで、民主主義と共産主義が激突した最大の内戦でもありました。
その中で、日本は台湾を中国の代表として認めており、昭和27(1952)年に「日華平和条約」を結ぶと言う政策を吉田茂内閣は打ち出しました。
ところが、これによって、中国本土との接触は公式では不可能となる結果ももたらしたのです。
そして、岸信介内閣は言わずと知れた「反中国派」首脳ということもあり、険悪ムードの中、昭和35年に倒閣となった後、日本との間で経済協力をして行こうという話に傾いていきます。同じく、昭和35年10月、周恩来首相が対日の窓口で日中貿易推進会の会長鈴木雄一氏と会談し、下地作りをした事から昭和37年のこの合意が実現したというわけです。その後、LT貿易体制は拡充されると思いきや、昭和41年に中国本土を嵐に巻き込んだ「文化大革命」が発生して、一時、頓挫。そののちMT貿易で復活した後、昭和47年の日中国交正常化とともに、昭和53年の日中平和友好条約締結へと流れが進みます。

一方で、東京五輪(第18回オリンピック競技大会)では、

実際には、東京五輪の開会式の時の内閣総理大臣が池田勇人氏であったのですが、このオリンピックを開催させるために、数多くの開催組織委員会のメンバーが尽力して、この大会の開催にこぎつけたのですが、開催が決まったのが昭和34年、その直後となる昭和35年の「安保闘争」で、国論が二分した後処理として池田勇人氏が内閣を岸信介氏から引き継いだ訳でした。
そう考えてみると、経済を豊かにして、国民の不満を和らげる役割を池田勇人氏が果たしたのは言うまでもなく、心配りをすることが重要だと考えていたのも納得がいきます。
その中で、このオリンピックが果たした役割は、
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東海道新幹線などの公共交通機関の発達でした。この時代の特急は、北は北海道から、南は九州までの主要幹線区間だけにとどまっていたのですが、この時期を境にして一般民衆に親しまれる交通機関が増えていくことになります。

それを実現させたのも、池田内閣の手腕だったといっても過言ではなかったと私には思えます。しかし、池田勇人氏本人はがんを患い、その年の12月に亡くなることになります。

そして、高度経済成長はさらに先に進みます。ということで、5回にわたりましてお伝えしてきたのですが、次回からは「06」に移り、佐藤栄作内閣の時代をお話ししていきます。それでは。