新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-1 「和平交渉と憲法で揺れた時代」

本日の話題の3本目は「歴史もの」から新シリーズの第27回、昭和39(1964)年11月、池田勇人氏が病を患ったことから、後任の首相として佐藤栄作氏に組閣が命じられたあと、池田勇人氏は翌昭和40(1965)年8月に死去し、LT貿易などの諸政策が、佐藤栄作氏に引き継がれていきました。

そういう話も踏まえて、佐藤栄作内閣が行った問題と向き合っていきます。昭和39年の11月9日(奇しくも私が生まれる18年前)に発足した佐藤栄作第1次内閣ですが、こののち第1次から第3次改造内閣まで、合計7年8か月にわたる長期政権として、日本の60年代後半から70年代前半にかけて、政務を取り仕切っておりました。
ちなみにですが、この7年8か月は、1度の通しでは最長記録といわれており、途中感覚が開いた部分を無視して計算すると、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文氏に匹敵する長期政権でもありました。
この内閣で特徴として、特筆すべきなのは、同時期に議員生活を共にし、後に首相となる田中角栄氏とともに(正式に言うと、第1次で大蔵大臣入閣、第3次改造で通産大臣を歴任し、昭和47年に首相となります)、戦後の東アジアとの関係の修復に努めたことで、アメリカ合衆国との間では、日本の近海にある2問題、「小笠原諸島返還問題」と、今も基地問題で揺れる「沖縄返還問題」が、大韓民国との間では「日韓国交及び戦争賠償問題」の解決が、中華人民共和国との間では「日中国交及び戦争賠償問題」の解決といった問題が、残されておりました。
この2国のうち、中華人民共和国との間では、「台湾との国家主権の争い」問題も解決していない(決着したのが昭和47年)、こういったこともあり難題を抱えての船出となったわけです。

そこで、昭和40年1月10日、椎名悦三郎外務大臣を伴って渡米、ケネディ大統領が暗殺された後(通称「ダラス事件{昭和38年}―ちなみに、日本初の衛星中継による最初のニュースが、ケネディ大統領の暗殺事件でした)に、大統領となったジョンソン氏との日米会談に臨み、対アジア(中華人民共和国・ベトナム)と、「沖縄編問題」などに付いての協議、翌13日に日米安保体制堅持と、重要な国際法案に関しては協議を緊密かつ断続的に行うという共同声明を発表するに至ります。
この背景には、その前の年に起きた出来事が絡んできます。それは中華人民共和国で行われた核実験です。
この画像を見てみると、隣の説明文に「我が国の”原爆”第1号」と表記されております。この弾頭を使った実験が、昭和39年10月16日、つまり、東京五輪開幕から6日後に行われたのです。
ちなみに、コードネームは「596」、読み方は「wu·jiu·liu」という読み方をします。実は、タクラマカン砂漠のロプノールで実験を行ったのですが、当時の首相周恩来氏が池田勇人前首相に対して、「核爆発実験は、専守防衛のためであって、やむを得ないことであり…」と陳謝の文を送っております。
さらに、「ベトナム」問題は、
2月に起こる「北爆」などが関係してきますが、この時期は、15年にもわたる長い時間の3分の1にも満たない時間での会談となっていたために、この後、アメリカ合衆国が本格的に介入する前の状態でした。

そんな中で、沖縄も最重要拠点として、機能し始めます。その年の7月29日以降B52型がベトナムの空に飛来するなど悲惨な戦場が、ベトナムの地で起きたというわけです。

その中で、佐藤栄作氏がどのようにして長期政権を維持したのか、それについて「06-2」から解説していきます。それでは。