新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-2 「和平交渉と憲法で揺れた時代」

本日の話題の3本目(正式には4本目)は、「歴史もの」から新シリーズの28回、本日は、佐藤栄作内閣がなぜ長きにわたって、政権を維持できたのかについて、お話ししていきます。

昭和39年から昭和47年にわたり、3度の組閣と、それに匹敵または凌駕した改造組閣人事を行った佐藤栄作内閣、その背景には、アメリカ合衆国と中華人民共和国との関係が大きく関わってきておりました。
実際に、外務大臣ポストを見てみると4人います。まず、第1次が池田勇人内閣から留任した椎名悦三郎氏、第1次改造1と改造2でも、椎名氏が留任し、その後、第1次改造3で三木武雄氏(のちに田中角栄内閣の跡をついで「クリーン三木」として有名となりました)が、第2次の1次改造まで務めた後、第2次改造2では愛知揆一氏が第3次内閣まで勤め上げ、第3次改造で福田武夫氏(のちに内閣総理大臣として「日中平和友好条約」締結に尽力しました)が務めることになります。

これに、年表を重ねてみると、この内閣が取り組んだ外交の出来事が関係しています。まず、第1次の改造2次内閣まで外相を務めた椎名悦三郎氏のころに、「日韓基本条約」が締結されており、日本万国博覧会の開催が決定されております。三木武雄氏の時期に成果とすると、小笠原諸島復帰。愛知揆一氏が外相を務めたころには日本万国博覧会が開催されておりましたが、同時に難題として「よど号ハイジャック事件」の対策で追われた頃と重なります。そして、福田武夫氏の下で、沖縄返還という流れになっていきます。
つまり、それぞれの外相が、対外問題で結果を残していったということが、大きいというわけです。

その中で、佐藤栄作内閣が取り組んだのが、周辺国との関係修復そのものでした。トップバッターとして挙げるのが、昭和41(1966)年6月22日に締結された「日韓基本条約」、正式名称が「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」と呼ばれる平和条約です。
そもそも、大韓民国と日本との間の関係は、終戦から6年も経過した「サンフランシスコ平和条約」で、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国は参加できなかったという話を紹介しました(03-3)。
それに関しての影響を3点述べました。おさらいすると、

1.領土問題の規定による文言に、竹島を含まなかったこと(現在の「竹島問題{正式には『竹島帰属問題』}」)
2.戦前に生じた問題、賠償請求問題はこれを放棄する。または、個々に交渉をすること(一例「従軍慰安婦問題」)
3.元々、大統領との首脳会談が実現できなかったことから、この会議後14年間、国交、平和条約が結べない状況となっていた。

このうち、大韓民国が会議に参加できなかったのか、それを、アメリカ合衆国側と大韓民国側の双方で見てみると、大韓民国が初めから『連合国』としての存在を、連合国側に認めさせるという駆け引きが如実に見えてきます。

昭和26(1951)年1月、当時大統領だった李承晩氏は、「サンフランシスコ講和会議への出席」を表明していたのですが、アメリカ合衆国とイギリスから断られるという始末となったことが背景にあり、そのまま日韓での首脳会談が合計7回にわたって開かれたわけです。

ところが、第1次首脳会談(昭和27年2月15日から4月25日にかけて)直前に、李承晩大統領が引いた「李承晩ライン」が物議をかもして、国際問題化し、当時のトルーマン大統領は「サンフランシスコ講和会議による『サンフランシスコ平和条約』違反だ!!」と批判されるなど、「日韓基本条約」に至るまでの14年間問題となってきたわけです。

この第1次から第5次までの会談は、決して両国が歩み寄ることがなく、双方の主張のぶつけ合いとなってしまいます。その変化が起きるのは李承晩氏の退陣と、朴正煕大統領によるクーデターですが、この話については次回「06-3」でお話ししていきます。

そんなわけで、次回「06-3」では、日韓基本条約締結を左右した「大平―金会談」と韓国国内での反動、さらに「日本国憲法」との関係についてみていきます。