初春の吉野路(特急走行50周年)・大和路を駆け抜ける列車たち 07

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「初春の吉野路(特急走行50周年)・大和路を駆け抜ける列車たち」の第7回です。
イメージ 1
私と、24656F氏の二人で、壺阪山駅の踏切に、たんば4号氏は壺阪山駅で列車を待つことになりました。
この場を使って、以前の記事では書かなかった疑問を、この場で書いていくことにしたいのですが、少し、歴史の要素が入ってきますことをお許しください。
イメージ 2
実際に、大阪府下の近鉄路線は2種類に分かれ、路面電車(軌道線)を母体とした近鉄奈良線(大正3{1914}年全通)と大阪・山田線(昭和7{1931}年全通)、鉄道線を母体とした南大阪線(大正9{1921}年)に分かれますが、吉野線に関してはこれまた別の企業が、路線建設に当たるといういきさつがありました。
特に、明治25(1892)年から建設された、現在の関西本線の大阪口の路線となる、通称「大和路線」の湊町(現JR難波)駅から王寺駅の間と、和歌山線の王寺駅から高田駅間、桜井線の高田駅から桜井駅までの区間、明治29(1896)年には、和歌山線の高田駅と五条駅が開通したことが、背景にあります。
その奥地に吉野がありますが、近代に入るまでは、水運を使っての木材運搬で、大阪との経済圏の結びつきを確保しておりましたが、この鉄道が明治後半のころに開通整備されたことで、
イメージ 3
輸送形態の大きな見直しが行われ、吉野の村人たちが、課題を解決しようと、鉄道敷設計画を出すことになります。
ここで、グーグルマップで、吉野線の中核駅である吉野口駅を見てみますと、こうなっています。
イメージ 4
壺阪山駅を出た列車は、一旦進路を南西に向けて、市尾駅と葛駅に進み、吉野口駅を出てから、南東にまるでカーブを描くように進むという進路を取ります。
ちなみに、材木加工で栄えていたのが、下市口駅から六田を経て大和上市駅までの区間、ここが材木加工の本場ということになります。
イメージ 5
ここから当時の商業都市圏の大阪までアクセスするとしたら、当時五条駅まで伸びていた和歌山線で、和歌山線を北上し、さらに和歌山線から王寺駅で関西本線に直通させていくという方式をとることになりました。当時は吉野口駅と六田駅を結んでいた「吉野軽便鉄道」が末端区間となるのですが、これに関しては、大正7(1919)年に吉野を訪れた歴史学者の大類伸氏の著書『歴史と自然と人』の「吉野山」に記述があります。著書より抜粋いたします。

「3月31日の朝私は名古屋を立った。春の好季節とて伊勢路、奈良路の記者混雑すること一通りでない。(略)奈良を過ぎれば車中もよほど余裕ができ車窓からの展望もやや(原文「やゝ」)自由となった。(略)
王寺駅で汽車を乗換へさらに吉野口で再び吉野鉄道(吉野軽便鉄道から社名を大正2年に変更)に乗換える(原文「乗換へる」)。吉野鉄道は軽便鉄道の類で小さな車にいっぱい客を詰め込んで、ガタ〱走ること1時間余り、午後4時頃吉野駅に着いた(注意:現在の六田駅で、吉野駅から手前に3駅、現在特急停車駅となっています)。こゝより吉野山の中心地で約1里10町(この1里は約4キロ、そのため4.4キロです)ある。…(以下略)」

こんな風に、当時の吉野駅、つまり六田駅から吉野駅までの区間の敷設には、長い時間がかかり大正10(1922)年にようやく着工免許が交付され、昭和3(1928)年に吉野駅までが全通することになるのです。開業日時が3月となると、
イメージ 6
そうですよね。桜の季節ですよね(PIでごまかしてしまいました)。それに間に合わせるためでもあったわけです。つまり、産業振興がもともとの目的であったことから、地方鉄道としての役目と観光鉄道としての役目を同時に持たせるために、吉野口駅にターミナルを持ってきたというわけです。
ただ、チャンネルが一つだけでは、輸送力が心許ないということから、遡ること8年前の大正8(1920)年に、吉野口駅から北に伸ばして橿原神宮前駅までの区間の建設許可が交付され、4年後の大正12(1924)年に開業させたのです。
イメージ 7
これが、現在の南大阪線と直通させる土台となりました。ところで、そこにやってきた「後発組」こそ、大阪電気軌道、今の近鉄だったわけですが、真実は大きく異なります。
まず、橿原神宮前駅まで大阪電気軌道線が開通したのが大正18(1923)年3月、吉野鉄道が翌年の11月、さらに、南大阪線の母体となる第2「大阪鉄道」は、昭和4(1929)年という構成となっていたわけです。
実は、この「後発組」というのは、大軌ではなく「大阪鉄道」ですが、そこには熾烈な争いが待っておりました。
イメージ 8
まだ前半ですが、まとめてみると、林業の輸送路の確保のために、鉄道を使うという典型例で、吉野口駅との間のアクセスをよくするために曲線を使用しなければならなかったという事実が、この蛇行を生んだ背景にはあったということになります。それは、吉野の人々が、生活の向上を選んだことに起因するといえるのかもしれません。

少し長くなってしまいましたが、次回「08」も同じく壺阪山駅からお伝えします。それでは。

<<<PREVIEW 06   NEXT 08>>>