新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-3「和平交渉と憲法で揺れた時代」

本日の話題の3本目は、「歴史もの」から新シリーズの第29回、テーマは「日韓基本条約」の話の真っ只中というところから始まります。ちなみに、佐藤栄作第1次内閣の時代となる昭和40年に入るまでの話です。

佐藤栄作氏の前に内閣総理を務め、昭和40年に病没された池田勇人氏のころ、当時外相を務めていた大平正芳氏(のち福田武夫内閣の後に内閣総理となり、総選挙の最中に急死された悲劇のお方です)と大韓民国の中央情報部部長金鍾泌氏との会談が昭和37年10月に持たれることとなり、そこで話し合いがなされることとなりました。当時、大韓民国中央情報局は略称が「KCIA」、現在の大韓民国国家情報院のトップに当たる部署です。
それからさかのぼること7か月前の3月の会談では、賠償金の請求金額がアメリカ合衆国のドル建てで最低でも2億6000万ドル、レート換算で、720億円強という最低限ラインが設定されておりました。そのうえで、大韓民国はさらに3億4000万ドル上積みし、6億ドルを提示(当時のレート換算で2160億円)、しかし、大平外相はそれに対して、1億5000万ドル(当時のレート換算では、378億円)を提示して真っ向から対立します。
そこで、アメリカ合衆国が間に入って交渉を続け、結果的には、3億ドルから3億5000万ドルの間で妥結、当時のレート換算では1000億円規模ということになっていったのです。
実は、10月21日の大平・金会談で、大平正芳外相は、「3億ドルとして、年2500万ドルとなり、12年での支払いとなる、そのうえで、日本がフィリピン、インドネシア、タイ、ビルマ(現ミャンマー)、台湾に毎年7600万ドルの賠償を支払ってきており、その中で、フィリピンが2500万ドルで、一番最高額である」という説明をしたのに対し、金KCIA部長が次の疑念を持ちます。
「もし、2500万ドルがフィリピンとするなら、それに従って行う必要はあるのでしょうか、それと12年は長すぎます。私たちは、戦争から立ち直って9年しかたたない中、経済復興が急務となっております。」と述べたわけです。
しかし、
「もし、請求するのだとしたら、日本の国会や、国民が納得してもらうには、『独立祝賀金』といった名目がつけられるかもしれません。ですが、請求権をなぜ韓国は求めるのかという国民の非難の声もありますから、6億ドルの請求額はなかなか受け入れられない、そのうえあり得ません」と要求に対してこのように答えます。

この会談が不調に終わってから翌日となる10月22日、金KCIA部長は、当時の内閣総理大臣の池田勇人氏と会談。
「法的な根拠に基づくのであれば、純弁済額は、篤く計算して7000万ドルまでで、最終的には1億5000万ドルかそれ以上が提示できる」と池田勇人氏は述べます。
この結果、11月に入って、無償3億ドル、有償2億ドル、民間借款1億ドル以上という条件を付けた「金・大平メモ」が出来上がったわけです。
実は、大平正芳氏も40分ほど思慮したうえで合意することになった条件ができていたわけです。その後、朴正煕大統領が来日(来日時の肩書は国会最高議会議長)し、池田勇人氏との会談で、賠償的性格ではなく、法的根拠に限ると言う説明を受けることになります。

しかし、大韓民国国内にたまっていた批判が、朴正煕氏に集中したために、「経済協力」とは別物と誤魔化して、その場を乗り切ります。その後、昭和38(1963)年の大韓民国大統領選挙で朴正煕氏が、大統領に就任すると、李承晩ラインの撤廃で話し合いが進みます。その中で翌39(1964)年6月に日韓条約反対デモが激化したことから、交渉が凍結。現在の朴クネ大統領の前に、大統領となった李明博氏もこの事件で拘束され、懲役刑を受けるというエピソードがあるなど、かなりの影響を及ぼすことになります。

しかし、これを黙って見ていなかったのが、アメリカ合衆国です。アメリカ合衆国は日韓条約反対デモが起きたころに、北爆を開始していたために、露骨に介入するようになります。そうした中で第7次会談へと突き進みます。
それでは、ここで早くも次回ですが、「06-4」は第7次会談から「日韓基本条約」締結までの流れと、その後、日本と韓国のその後などに付いてお話しします。