初春の吉野路(特急走行50周年)・大和路を駆け抜ける列車たち 08

さて、本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「初春の吉野路(特急走行50周年)・大和路を駆け抜ける列車たち」の第8回です。では始めましょう。

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さて、3月15日のお話しですが、私たちは、壺阪山駅の踏切にいたところから始めますが、実際に、大阪から中央大和と南大和の玄関口である橿原神宮前に伸びてきた2路線は、その後どうなったのでしょうか。

さて、先行して橿原神宮前駅に達した大阪電気軌道こと、大軌は大正15(1926)年10月の免許申請で、とんでもない申請を行います。それは、橿原神宮前駅から一旦南西にはいかないで、そのまま南を進み、下市口駅まで達して、東側にかじを切るという、吉野鉄道にとっては脅威といえる内容でした。
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これが、ライバル第2「大阪鉄道」にとっても、驚愕の免許申請だったわけです。一方、大阪鉄道はただ手をこまねいていたのか、実は、吉野鉄道と軌道幅が同じだった吉野鉄道に接近していったのです。
証拠として、吉野鉄道は12月7日付で自社路線の橿原神宮前駅(橿原線ホーム)と久米寺駅(南大阪線ホーム側)との接続を果たすために複線化するとともに、「壺阪山駅より上市(大和上市)駅までは新線を建設する」という免許を申請。
受け付けた奈良県知事が曰く。「確かに、路線建設は大切だけど、1路線移譲も建設されては、延長路線との競争にさらされ、二社とも倒れる可能性はある。」と。
それに対して、鉄道省の出した回答は付帯条件付での許可だったわけで、2つの条件が提示されておりました。
1つは、1年後、またはそれ以降、吉野鉄道に影響がみられる場合は、部分合併並びに合併を要請されても拒んではならないということです。
2つは、合併後に至って、吉野鉄道を走る車両が、提携している大阪鉄道に直通させることを拒否してはならないということです。
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この形で着工した吉野新線ですが、実際に実現した場合はどうなっていたのでしょうか。
想定されるのは、大阪上本町駅から直通の吉野駅行列車が運行されることです。それが意味しているのは、吉野線自体の発展を妨げるということです。それに対して、大阪鉄道にとっては吉野方面観光の道を閉ざされることになり、狸の皮算用になりかねない状況であることは、明らかでもあったわけです。加えて、この時期に顕著化した不況(昭和2【1927】年には金融恐慌が発生しています)も追い打ちをかけかねない。
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そのような状況下で、第2大阪鉄道は思い切って南大阪線の延伸工事に着手し、両鉄道は同時に利用客争奪戦を演じていくことになります。
そして風向きが変わったのは、第2大阪鉄道が南大阪線が全通した昭和4年、先に進出していた大阪電気軌道が、吉野鉄道と合併することになっていき、その年の7月19日に正式に合併します。が、
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ここで思い出してください。大阪電気軌道は路面電車、吉野鉄道は鉄道から身を興した会社、接続駅の橿原神宮前駅では、直接の接続はできません。そこで、大阪阿部野橋駅との直通運転を第2大阪鉄道と大阪電気軌道とでタッグを組んで行うことになっていきました。
結果的に両者の争いに、終止符を打ったのは、昭和19(1944)年の近鉄への統合でした。これによって、近鉄線としての旧第2大阪鉄道線は、生き残ることになりました。
これが、京都駅から大和路、南大和路、吉野路を結ぶラインを、形成することになるわけです。
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ということで、次回「09」も壺阪山駅からお送りします。それでは。