新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-6「和平交渉と憲法で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の通算第32回です。

どこまで行ったのかといいますと、直近2回の記事で「日韓基本条約」とそれに関連した「漢江の奇跡」、そして、現在問題となっている「従軍慰安婦問題」などを取り上げてみました。

さて、今回からは、話の相手が再びアメリカ合衆国に代わります。今度のお話は、現在世界自然遺産に指定された。小笠原諸島が話の舞台です。
日本国内における、行政区分での島の位置づけは、東京都となっており、太平洋戦争で硫黄島の激戦が有名となり、近年クリント・イーストウッド監督の下で映画化された『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』が有名になりました。

しかし、その戦争ののち、戦後13年もの間、小笠原諸島はどうなったのか、まず、その部分から話を起こしていきます。

終戦の8月15日から、わずか5か月後の昭和21年1月、小笠原諸島は実質上のアメリカ合衆国軍政下におかれることになり、同じ年に東京都内に、小笠原諸島を管轄する支庁が誕生するなど、小笠原諸島は日本と切り離される運命をたどります。
実は、戦後領土返還交渉を日本はたびたび行ってきたのですが、この昭和21年は、その最初の例となる伊豆諸島が3月に返還されており、昭和27(1952)年には、トカラ列島、昭和28(1953)年12月には奄美群島が返還され、残る大物は3地域、つまり、小笠原諸島と沖縄県を有する沖縄諸島、北方4島地域という形です。
実は、この中で、いまだに返還されていないのは、北方4島地域だけとなっており、ロシア政府の対応が注目されております。

話を、小笠原諸島に戻して続けます。その占領直後、小笠原諸島にはアメリカ合衆国海軍の基地が存在しておりました。その理由は、南にあるアメリカ合衆国委任統治領のグアムの存在があります。
このグアムから小笠原諸島を経由して沖縄県を結ぶラインは、対共産防衛の海側の防波堤ともなりえる扇の要のような存在であり、その先には、現在「オスプレイ」配備で議論が起きかけている東京都「横田」などの諸基地とを結ぶ重要な位置にあったとされております。
また、小笠原諸島父島には、アメリカ合衆国海軍が建設した「核兵器貯蔵施設」が建設されていた事からも、小笠原諸島が重要な拠点であったこと物語る一つとも言われておりました。
その小笠原諸島の返還が一度検討されていた時期があります。それは、昭和25(1950)年代のことで、アメリカ合衆国国務省が、小笠原諸島について返還を検討していたのです。ところが、それに難色を示したのがアメリカ合衆国海軍を管轄していたアメリカ合衆国国防総省で、父島に建設していた「核兵器貯蔵施設」の秘密を隠すためという理由があったとされております。ただ、これについては、本当のところ、まだ不明な点も多いというのも事実です。
その直後となる「日本国との平和条約」が発行した昭和27(1952)年には、


と、明記され昭和43(1968)年までの、足掛け16年のアメリカ合衆国による統治が続きます。これに関して、「サンフランシスコ講和会議」では、インドのネルー首相が、同会議を欠席しています。これは、「日本に名誉と自由を他の国々と同様に与えるべきであると考え、講和会議への不参加を決めたから」という背景があっただけでなく、「沖縄や小笠原諸島は日本へ返還すべきである」という考えがあった為ともされており、日本に名誉と自由を他の国々と同様に与えるべきという考え方の一つとして、現在もかたられているそうです。
その状況が一変するのは、1960年代に入ってからです。ここで、カギとなってくるのが「沖縄返還」闘争運動です。これは、アメリカ合衆国軍が強制的に多く建設した基地と、その犯罪(これは返還後も、減少せず平成7(1995)年に大きなうねりとなり「日米地位協定」の改定などの効果をもたらしました)が減らなかったことから、返還運動が盛り上がりを見せ、それと同時に、小笠原諸島の返還を求めていく声が、強くなってきたというわけです。これは、元島民だけでなく日本国民の一部でも声高に叫ばれるようになってきたわけです。
その高まりをくみ取った佐藤栄作内閣(この時は、第2次内閣)の首相佐藤栄作氏は、昭和42(1967)年11月14日及び15日にアメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソン氏との日米首脳会談で、「小笠原諸島の1年以内の返還」の合意を取り付け、この合意をもとに、翌昭和43(1968)年4月5日に「南方諸島及びその他の諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」が締結され、5月22日に衆参の国会承認を受けて、小笠原諸島の返還に結び付けます。これを契機として、その4年後の昭和47(1972)年の「沖縄返還」交渉へとつながっていくのですが、小笠原諸島の返還に際しても、アメリカ合衆国の所有する軍事基地は使用継続(当時は、硫黄島と南鳥島)が認められる結果となり、これが「沖縄返還」にも受け継がれる格好となったわけです。
実際に、小笠原諸島が返還された直後の住民はどういう気持ちだったのか…、実はそれを知るすべがありませんが、喜びに沸き立ったことは想像に難くありません。

その後、平成23年に至り、小笠原諸島は日本で4番目、関東地域などでは初となる世界自然遺産に認定され、日本の「小笠原」から、世界の「小笠原」として、現在も観光の島として、世界中に知られる存在となっております。

考えてみると、日本が取り組んだ領土交渉としては、後の「沖縄返還」交渉への布石とみる向きもあります。ただ、「沖縄返還」の場合は、少し異なる面も持っておりました。これは「06-8」においてお話ししようと考えております。

さて、「06-7」に次回は移るのですが、そのころの日本では、共産主義にあこがれを持つ若者が多くなっていき、「大学が機能停止する」という、現在では考えられない事態が巻き起こっておりました。その時に、受験生だった人たちが、今の「団塊の世代」であり、個人の話になってしまいますが、私の父親もその一人でした。

その父も体験した昭和43年から44年にかけての、「共産反政府闘争」。その実態は何だったのか、これにスポットを当てます(次回は前編です)。おススメする映画も紹介していきますので、お楽しみください。次回は、まだ日程は決まっておりませんが、5月21日を予定しております。それでは。