新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-8 「和平交渉と憲法で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の通算第34回、この回から、おススメしておく映画のご紹介も兼ねておりますので、その点をご了承ください。

一旦、時を進めまして、昭和40年代最大の事件といわれる昭和47年2月を迎えます。その日、長野県軽井沢町にあった「あさま山荘」では、幾重にも包囲した警視庁と長野県警機動隊が、「あさま山荘」に立てこもった連合赤軍メンバーに対して、捕獲の行動に出ると同時に、メンバー側は散弾銃で応戦、殉職者を出すという事態になったことが知られております。
では、そもそも、このように過激派が急速に問題になったのか、この状況にリンクしていたのが、今回取り上げる「学生反乱」と呼ばれるものです。

実際に、佐藤栄作氏が内閣を組閣した際、多くの市民からは、当時の国際問題だった「ベトナム戦争」への反対が各所で起こっていたことも背景にありましたが、これは市民を巻き込んだものであったためで、性格としては異なっていたものの、この運動の背景に必ず「ベトナム和平」の旗印が翻っていたことは、見逃せないところです。

その中から、学生主体の暴力デモの始まりとなった事件が、昭和42(1967)年に起こった「第1・2次羽田事件」、通称「羽田闘争」という事件となります。
(当時の画像:Wikipedia「羽田事件」より)
この事件で、主導的な役割を果たした組織が「三派全学連」こと「全日本学生自治会総連合」で、三派は「ブント(共産主義者同盟)」と、「革命派(革命的共産主義者同盟全国委員会)」、「社青同解放派(日本社会党下部組織の一つで正式名称社会主義青年同盟の解放派のこと)」のことをさしております。この組織を一つずつ紹介するのには、時間がかかるので、少し皆様にもなじみのある人物を、紹介するにとどめます。
この当時、「ブント」派に参加していた学生にの中には、「60年安保」で命を落とした樺美智子氏が、さらには、こののち取り上げることになる「よど号ハイジャック事件」のリーダーである田宮高麿氏、「よど号ハイジャック事件」の計画立案にかかわった上原敦男氏が、特に最近、注目された人物としては、日本赤軍を創設した重信房子氏、連合赤軍などの母体となる赤軍派を創設した塩見孝也氏も、この「ブント派」出身だったそうです。
一方、「革命派」では、以外にも人物としては前の東京都知事だった猪瀬直樹氏、「社青同解放派」で関連していた人物として、歌手の加藤登紀子氏(夫が学生運動の活動家というのが縁だそうです。{注釈:夫は藤本敏夫氏})が上がることになります。

しかし、組織はわかったけど、どうして「学生が反乱に?」と思われる方も多いのではないでしょうか。その背景として3点あげられます。初めに、この時期に急激に上昇した大学進学率、続いて、当時の大学側の対応、さらにはベトナム戦争などの閉塞した社会状況という点です。

まず、大学進学率の急上昇についてですが、この昭和40年代の時点というのが、第1次ベビーブームで生まれてきた人たち、「団塊の世代」が高等教育を受ける時代に当たり、集団就職活動「金の卵」もこの世代であり、今回取り上げる「学生反乱」もこの世代の大学側の対応が、原因で起こったものが多かったからです。
元々、大学側にはこれらの事態に対応して、学部を増やし、産業界を育成するために、理系学部を増設するという政策を打ち出しておりました。しかし、資金が底をつく可能性も排除できなくなってきたことから、その資金調達を学生側に求めたのです。それに対して、学生側は当然のことながら、反発します。
その値上げ反対の一番手を切ったのが、私立大学の中でも最古参といわれる慶應義塾こと、慶応大学でした。これが昭和40年のことであり、当時は暴力を伴わないハンガーストライキのようなものだったわけです。それが徐々に、都内にある大手私立大に伝播し、医学部のインターン制度に代わる登録制度への変更騒動で起こった「東大闘争」が、「羽田事件」の翌年となった、昭和43年から始まっており、そののち、昭和44年の「東大安田講堂占拠事件」に発展します。
元を正せば、権威主義的で旧態依然とした大学運営を、原因とする事件があったことを考えると、彼らの心中に「自分たちは大学で勉強しているのだが、それが果たしてこの国のためになるのか?」という疑問が芽生え始めたということも、事件がエスカレートして行くのに拍車をかけた可能性はあります。
実は、こういった関係の事件は、何も日本国内で起こった現象ではなく、世界的な潮流として「スチューデント・パワー」と呼ばれております。主に、「反戦」が主となる運動で、反戦を主体とした「ヒッピー」とも共通した考え方でもありましたが、「ヒッピー」はあくまで平和的に自然に生きるということを主眼としたのに対し、闘争的な「スチューデント・パワー」では、主な出来事として昭和41年に中華人民共和国で10年間続いた「文化大革命」などの大きな革命運動へと発展していったことに大きな違いがありました。

しかし、この東大の事件でおさまりきれたわけではなく、国税査察の関係から昭和43年4月15日に日本大学の経理に不適切な点が見え、20億円が使途不明金となっていると指摘されたことを発端とした「日大紛争」が発生、これによって、日本大学の経営が不鮮明という見方があったことから、この時点で経営陣の退陣となり、1600人が退学ないし除籍という最大級の闘争へと発展します。同じく東京大学でも昭和43(1968)年11月から翌昭和44年1月まで、医学部のインターン制度に代わる登録制度への変更騒動による「東大安田講堂占拠事件」が、多くの学生を巻き込んでの攻防戦に発展し、767人の学生が逮捕されるという事態になって収束を見たわけです。
実は、この年度は昭和43年度ですから、昭和25年生まれの高校生、昭和24年生まれまでの浪人生たちが、試験に臨むはずでした。この一件の影響で、東京大学入試が取りやめになるという影響も残していきます。
その中で、多くの学生がこの結果で逮捕されることになったのは言うまでもありませんが、現役の東京大学学生が767人中53人(54人と後に主張していて食い違う部分もあります)しかいないということから、他大学を強制退学、または除籍させられた学生が、多く含まれていたということを示しておりました。

これらの大学を舞台とした大事件が収束したわけですが、その根元の火は、まだくすぶったまま、昭和45年へと突き進みます。またもや、佐藤栄作内閣の政権期最大級ともいうべき事件が2つ起こります。其れには、「赤軍」という文字が見え隠れするのですが、そのお話しは、「06-9」でお話しします。

ということで、次回をお楽しみに。