新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-9 「和平交渉と憲法で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の通算第35回、今回は本題を少しそれますが、社会問題化してきた学生運動に、日本国政府がどう立ち向かったのか、この一件で、学生たちが後世に残した教訓とはについて、お話しします。

「東大安田講堂占拠事件」と同じ、昭和44年とある組織が神奈川県の城ヶ島で結成されます。その名も、「共産主義者同盟赤軍派」、略して「赤軍派」という「共産主義者同盟」の中では、最左翼に当たる組織です。この時期に、1月に「東大安田講堂占拠事件」が収束したのですが、この「赤軍派」は結成当初400人規模の政治組織ではなく、軍事組織的性格を帯びた「赤軍派」が佐藤栄作内閣と対決するという構造へと変わっていきます。その最前線で指揮を執ったお方が、『突入せよ! あさま山荘事件』のモデルとなった佐々淳行氏(のちに初代内閣安全保安室長)で、「赤軍」関連事件に、捜査側から深くかかわっていくことになります。

ということで、まずは、その「赤軍」という視点で、事件を見ていきましょう。
この赤軍は、城ヶ島で30人の幹部メンバーをもとに結成が宣言されたのですが、「共産主義者同盟」の中で、内部対立を起こすことになります。
実は、この「共産主義者同盟」は合計4派閥に分かれており、最左翼「赤軍派」以外に、主流となっていた「戦旗派」と、最右翼の「叛旗派」、「情況派」がいて、「赤軍派」とは考え方が異なっておりました。

その「赤軍派」の主張は、革命運動をなすためには『革命戦争』を起こすことが重要であり、日本において、革命を成就させ「世界革命」の司令塔を日本におき、そこから軍事的、または政治的にアメリカ合衆国(彼らの主張では米帝)に、戦争を仕掛け(彼らはこれを「環太平洋革命戦争」としている)、遂行するというものでした。
文を読んでいくと、何かに似ていると思いませんか…。「世界革命」という文言は、昭和一桁台までさかのぼった「コミューン」の文言に似ておりますし、「環太平洋革命戦争」と聞くと、「太平洋戦争」のことを考えているのではないかとも取れます。

実は、この背景には、戦前の軍人だった石原莞爾の著書『世界最終戦争論』の影響があると指摘されておりました。その前段階として、日本の警察制度の牙城を崩す目論見から、昭和44年の結成直後に行動を開始します。昭和44年9月22日と9月30日、大阪府警と、東京警視庁を狙った火炎瓶投下事件が発生、後に「大阪戦争」、「東京戦争」と呼ばれる事件で、東京と大阪で合計90人(内訳は3人が現行犯逮捕、大阪では47人が検挙、東京では38人が容疑者として割り出された)近くが逮捕されるという事件に発展しました。
あらゆる意味で「赤軍派」のアピールができたというものの、当初の計画は失敗となってしまい、その後、大規模な軍事訓練による首相官邸襲撃も想定することになります。
ところが、それを警視庁が察知したことから、大菩薩峠で訓練中だった「赤軍派」の拠点が、昭和44年11月5日に警視庁などによって、抑えられてしまう「大菩薩峠事件」により弱体化していきます。
しかし、この「赤軍派」のうち、海外に拠点を移して活動するメンバーもいたことから、海外拠点を作るうえでハイジャック事件を計画し、実行に移したのが、翌昭和45年3月31日(昭和44年度末)に起こった「よど号ハイジャック事件」につながります。
これについては、以前「丁度40年前の今頃…。前編」で触れたのですが、今回は少し詳しくお話しします。
実際に、「東京戦争」で警視庁本富士署を襲撃し、現行犯逮捕された人物から割り出した38人に、2人のメンバーが含まれていたことなども影響したと考えられますが、主要幹部を失った「赤軍派」の中で、「海外逃亡(亡命)」によって、海外拠点を作り、そこから「世界革命」を成就させるという思想を打ち出したのが、後に「よど号赤軍」となった田宮高麿氏のグループでした。
彼らが選んだ行先は、朝鮮民主主義人民共和国であったわけですが、どういうわけか彼らは、朝鮮民主主義人民共和国を支持しているわけではなく、「もっとも反米に近い国だったから」という理由で、同国に亡命したというのが真実のようです。
当時の「よど号」は、東京国際(羽田)空港発の福岡空港行きの351便で運航していた所を、富士山上空でハイジャックし(東京羽田~福岡間は約1時間半{現在の参考})、福岡空港(通常ならこの便の目的地)に降り立つも、乗客解放交渉でなかなか折り合わず、大半の乗客が越境して大韓民国(注釈:昭和40年に「日韓基本条約{略名}」を締結したため国交を結んでいた)に向かい、翌4月1日の午後6時朝鮮民主主義人民共和国への離陸までに、大半の乗客が解放されるまで、ぎりぎりの交渉が重ねられ、その人質となった乗客122人のうち、福岡空港で解放された23人と、アメリカ合衆国出身の男性一人を除いた98人と、乗員のうち、機長などを除いた客室乗務員4人を含んだ102人が、帰国することができたとされております。
しかし、当の朝鮮民主主義人民共和国は、この事態を表面上では歓迎せず「勝手に国に入ってくるとは、日本はどうなっている」という内容の声明を発表しています。これも、この事件の影響とみるべきかもしれません。

この事件とは別に、中東に赴いたメンバーもいました。それが重信房子をメンバーとする「日本赤軍」グループです。これは、「07」シリーズでお話しする予定です。

一方、国内残留となった「赤軍派」の一部は、神奈川県内で活動していた「日本共産党(革命左派)神奈川県員会」と呼ばれる極左組織と連携する動きが加速、やがて昭和46(1971)年12月、「連合赤軍」を結成して、「あさま山荘事件」へと流れが加速していきます。

次回は「06-10」では、その「あさま山荘事件」を起こした「連合赤軍」の性格と、その後の学生運動についてです。次回をお楽しみに。それでは。