新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-11 「和平交渉と憲法で揺れた時代」

皆様お待たせいたしました。本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の通算第37回となります。この回から3回にわたり、現在も「辺野古」で大揺れとなっている沖縄問題を取り上げていきます。今回は、そのプロローグのようなものです。

さて、沖縄というと、どういうイメージをお持ちになるでしょうか。たとえば、青い空と海、シーサが出迎える、人々は陽気でどこかラテンのような国に来たのではないか…と想像される方もいますよね。

何処となく、日本とは異なる文化、そして気候風土も、大違いのこの島、
Village in Taketomi Island - located at southwest Japan.jpg
当然のことながら、歴史も大きく異なっておりました。

琉球地方の歴史を見てみると、17世紀に入る慶長年間に、島津氏が侵攻するまで、独自の文化と政治体制が築かれていたと、いわれております。
そもそも、沖縄をひとくくりにした場合、沖縄本島を見ただけでは語れない部分も存在します。実は、古代(特に、推古天皇年間から、天武天皇年間まで)に、大和朝廷からの使者がここに来たのです。
その歴史からしても、琉球はまだ知られていない時代でもあったわけです。それが知られるようになるのは五日というと、文武年間に当たる8世紀に入る手前の文武天皇2(698)年ごろ、文武天皇が、「南島」に調査団を派遣したという記述が残っていたことから、この「南島」が、現在の南西諸島という意味として用いられた可能性があります。ただ、この時も奄美寄り南には行けないという事実があります。
いつになったら、知られるのでしょうか…、中世になっても、知られていないという状態だったわけではないのですが(ややこしくて、すいませんm(_ _)m)、中世の初期となる12世紀、つまり、日本本土の平安中期から、9年間は鎌倉期に入る時代から、徐々に知られるようになっていきます。

このころ、中国(当時の王朝で言うと、「南宋」、「金」、「元」があげられます。なぜ違うのかは、後で説明しますので、もう少しお待ちを…)からの陶磁器(当時の場合は青磁がもてはやされたそうです)の輸入が多いのです。

少し話を脱線させて、かっこを付けた部分のうち、中国についての付けた部分で「?」と思った方もいるかもしれません。実は、12世紀当時の中国は、分断された時代でもあります。ところで、分裂したのがいつなのでしょうか、「北宋」が「金」に攻め込まれたのが欽宗2(1127)年、欽宗は皇帝即位からわずか2年で、強制退学のようなことになってしまいました。いったいなぜと思う方もいるのですが、その前の皇帝に問題があったわけです。
徽宗皇帝が、前の皇帝で、欽宗の父親。文芸皇帝でもあったのですが…、彼は政治に無関心だったため、これが息子に降りかかってきてしまったのです。結局、弟の「高宗」が「南宋」を長江周辺の杭州に遷都するというのが、このややこしさの原因ともなります。では、「最後に書いた『元』は?」というのは、この前に出てくる「モンゴル帝国」が関係してきます。
実は、「金」と「南宋」を滅ぼした「元」は、13世紀に入ってから琉球との交易を、両国から引き継ぎます。またまたややこしくなるのですが、「元」の公式歴史書『元史』には「留球」の記述があります。これは、台湾のことを差しており、沖縄地方をさす琉球とは異なります。

そういった関係から、日本と琉球の交流が活発化し、15世紀に入って統一王朝としての「琉球」が誕生すると、17世紀に入るまで独自の王国を築きます。ところが、薩摩島津氏の侵略以降(慶長14【1609】年)、近世は江戸幕府との友好関係を築きながら王国を維持することに努めます。
江戸幕府が倒れた慶応3(1867)年、明治維新で明治政府は琉球を「諸藩」の一つに加えます。実際に、「諸藩」を府県に改めた「廃藩置県」(明治4【1871】年)であっても「琉球」は「藩」のままという措置が取られました。これは、「琉球」に対しての延命措置と同時に、心遣いでもあったと考えることもできます。
しかし、明治5(1872)年に台湾原住民に宮古島の島民が殺害される事件をきっかけとして、「台湾出兵」事件に発展し、その結果として「沖縄県(旧)」の新設と、「琉球藩」の廃止が同時に行われるという事態になります。これが「琉球処分」となるわけです。そして、明治期から昭和20年まで日本が統治しておりましたが、昭和20年4月から2か月にわたる「沖縄戦」で、焦土と化し、国際連合の委任統治下で、アメリカ合衆国が軍事統治を行うことになっていきます。

その中で、佐藤栄作内閣は、「沖縄返還交渉」に望むことになるのですが…、具体的な話は、次回の「06-12」でお話しします。それでは。