新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-12「和平交渉憲法で揺れた時代」

皆様お待たせいたしました。本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の通算第38回です。さて、沖縄返還のきっかけとなった歴史を前回お話ししましたが、その続きが今回の記事になります。

さて、昭和20年6月23日の組織的戦闘が終了した70年前のこの日、アメリカ合衆国は沖縄を直接統治を開始します。
本格的な、当地が開始されるのは昭和20年8月14日の「ポツダム宣言」受諾から6日後、8月20日に当たります。しかし、この時のアメリカ合衆国側の意識は、日本国が武力で制圧したと考えておりました。
そこで、前回のお話しを思い出してください。実際に、沖縄に進軍してきたのは「薩摩藩」の軍ですが、それを日本の帝国主義によって支配されたという考え方に至ったという誤解が生まれたわけです。また、沖縄は自治ができないとアメリカ合衆国は解釈しておりました。
日本の歴史では沖縄には、王国が存在していたことを考えれば、自治は可能だったという考え方もできますよね。どうしてこうなったのでしょうか。
彼らの主張では、「沖縄人は自ら政治経済を行えないという先入観」があったことが最大の背景にあり、そして民主主義をいち早く導入することが、最大の目的となったわけです。
その直後の「朝鮮動乱」による世界史の大変動によって、東西冷戦の真っ只中に立たされます。そのため、早くも統治自治政府を設けることが急務となり、「琉球政府」が誕生するということになるわけです。これは、明治12(1879)年の「琉球処分」以来、なんと70年ぶりの政府組織の誕生でした。ただ、アメリカ合衆国の統治下という限定的なものでした。
そんな中で、沖縄諸島の日本復帰運動が始まるのが、「安保闘争」問題で揺れていた昭和35(1960)年のことです。これより遡ること8年前、沖縄諸島周辺の島々で、返還の動きが相次いでいったわけで、昭和27年と28年にはトカラ列島と、奄美諸島が、そして、今回のシリーズ、通算第32回「新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-6」で取り上げた小笠原諸島が返還されたのが昭和43年と返還がなされてきました。
最後の大物こそ、この「沖縄」ということだったわけです。では…、その交渉についてですが、これがかなりの紆余曲折、そして、「密約」の存在などでとんでもないことになっていきます。

「沖縄」返還に向けての第1歩となった「沖縄祖国復帰協議会」という組織が旗揚げされる事から始まります。これが昭和35年、その当時のアメリカ合衆国大統領は、「安保闘争」で取り上げたアイゼンハワー大統領だったのですが、そのころは日本も「安保闘争」後の関連から、政治問題については、触れるところではないといった配慮があったために議題になりませんでした。
昭和38年から大統領となり以後5年間、アメリカ合衆国を率いた、リンドン・ジョンソン大統領も、駐日大使エドウィン・ライシャワー氏(明治33年日本生まれ{私も初めて知りました})が「返還」の方針を固めた方がいいと助言したのにも関わらず、本人は「返還」を躊躇したといわれております。
ここで、一つ「?」と思った方もいますが、なぜ、ライシャワー氏は「沖縄」返還を助言したのでしょうか。その理由を語るうえで、彼自身の経歴に関係があります。それは、「日本研究」という歴史学者として、日本の外交と文化を研究していたという話です。詳しくはWikipediaの「エドウィン・O・ライシャワー」氏紹介ページに譲りますが、「1860年以前の日米関係」という論文が、「日本研究」を出発させる一つとなりました。

そのライシャワー氏が迫った「沖縄」返還、それが動き出すのが、昭和44(1969)年10月になってから動き出します。それは日部首脳会談が行われたということにあり、そこで「沖縄」問題が取り上げられたのです。どういうことかというと、日本国内では、この年の12月に、衆議院解散があったのですが、この日米会談はその直前です。
また1月20日にリチャード・ニクソン大統領が就任したことで、アメリカ合衆国の「沖縄」に対しての見方が変わってきたのです。「新安保」の導入を前提条件としながらも、「沖縄」の返還にかじを切ろうとしていました。リチャード・ニクソン大統領の就任の公約とした「ベトナム戦争終結とアメリカ軍のベトナムからの撤退」ということが影響しております。
つまり、この会談は、日本の国内で大きな波紋を呼びます。「新安保」というのは、「日本国とアメリカ合衆国との間の総合協力安全保障条約」の延長のことをさしているわけですが、これが「新シリーズ」の通算第343536回の記事と関係してきます。
ということから、国会内では最大野党の「日本社会党」と、「日本共産党」が一斉に非難をしたのです。この理由は、「新安保」条約と「沖縄」復帰は同等に扱うものではないという主張です。しかし、6月23日に自動延長が実施され、「沖縄返還交渉」が1月に開始されることになります。この交渉は1年半を費やすのですが、「日韓基本条約」までの交渉期間を考えると、スピーディーな交渉ということが分かりますよね。実際には、「沖縄」を日本国の本土に復帰させるというのは約束します、と明言したものの、アメリカ合衆国にとっては、重要拠点だから残している基地はそのままにしておいて、ということだったわけです。
こういった事情に対して、沖縄県民(当時は県民という読み方ではない)は反発し、同年12月20日、コザ市(現在の沖縄市)で起きた「コザ暴動」といった事件が起こるなどの混乱が生じはしましたが、昭和44年10月の日米首脳会談での共同宣言「核抜き、本土並み、72年返還」というスタンスは堅持し、そのまま交渉を続けることになります。
そして、昭和46年6月17日に「琉球諸島及び大東諸島に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定」を締結して、昭和47年5月15日に沖縄県として復帰することが決まります。

その結果、沖縄県は、日本国の一員となったのですが…。次回「06-13」でこの事態に関して密約の存在が取りざたされることになるのです。その事件をご紹介していきます。ということで、次回をお楽しみに。