新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 06-13「和平交渉憲法で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の通算第39回、「沖縄」返還交渉の後編と、沖縄県編入についてのお話しです。

さて、前回では、「沖縄」返還までの大まかな流れをお話ししてきました。今回は、その中身に迫ります。
昭和44年11月21日、アメリカ合衆国ニクソン大統領との日米首脳会談から「沖縄」返還交渉がスタートしたのですが、このニクソン大統領の任期中に、「沖縄」返還についての最終的な約束をとりつけた事からのスタートでした。
それからさかのぼること、1年8か月前の昭和43年1月30日、佐藤栄作首相は、国会で以下の4つの方針を表明することになります。1つ目は「非核三原則」、2つ目は「核廃絶」及び「核軍縮」、続いて3つ目は「アメリカ合衆国への核抑止力依存」、4つ目は「核エネルギーの平和利用(原発の開発)」です。さて、1つ目に挙げた「非核三原則」は、さらに1月前の昭和42年12月11日の衆議院予算委員会答弁で、佐藤栄作首相が述べたことで、「日本は核兵器を『持たず』、『作らず』、『持ち込ませず』という方針を取ります。」という事をさします。これは付け加えて「これは小笠原諸島返還(32回)でも適応します」ということを明確に打ち出した格好となりました。実はこれも「沖縄」返還で適応すると言う話でした。

一方で、沖縄県内(当時は県ではないものの便宜上)では、アメリカ合衆国軍人と県民(当時の読み方は、住民)との間で、様々な問題が起こっておりました。「非核三原則」の施政方針演説を出したまさにその年の11月19日に、嘉手納基地でのB52爆撃機通称「ストラトスフォートレス」の墜落事故が発生、当時の『琉球新報』(最近の自民党の勉強会の問題で抗議声明を出したマスメディアの1社です)の夕刊では、周囲4キロ四方で爆風が吹き荒れ、民家のガラスが軒並み破壊されるという被害があったと報告されております。
見出しでは、「住民3人負傷、米人2負傷/大爆発を繰り返す/屋良部落に爆風害/離陸直後に大爆発」という文字が躍っていたのだとか…、同じ知花弾薬庫では日米会談のまさにその年の7月8日、神経毒ガスであるVXガスが漏えいする事故が発生した等で、住民の反米・反戦感情が抑えきれなくなり、翌年の昭和45年12月20日、
Koza Riot 3.jpg
沖縄市で起きた「コザ暴動」へと発展していったのです。実際位にいうと、この基地が集中する時点で、アメリカ合衆国軍の犯罪は、摘発するにも現在の日本のように、ずさんといわれる状況で、「コザ暴動」からさかのぼること3か月前の9月、糸満市で酒気帯び運転のアメリカ合衆国軍兵士所有の乗用車が、歩行者をはねる事故が起き他こともあり、アメリカ合衆国軍に対しての不満が一気に爆発した事態となり、関係ない車までが巻き込まれる事態となっていきました。
そんなこともあって、2年間の返還協定交渉となったのですが、この時どうだったのかといいますと、沖縄県公文書館のホームページでは「最も難航したのが、有事の際の〈基地の自由使用〉〈核兵器の再持込み〉と返還に伴う〈財政補償〉」だったようです。
沖縄県公文書館の資料から見えてくるのは、「アメリカ政府は早々と核兵器撤去の決定をしていながら、交渉の最終段階までその〈切り札〉を使って、日本政府から譲歩を引き出し」、結果として「基地の自由使用は共同声明と同日に行われた佐藤首相による「一方的な声明」、核の再持ち込みは、秘密合意議事録という形で結実」ということになってしまったのです。
理由には、「ベトナム戦争」の長期化があげられます。
それゆえ、アメリカ合衆国も「切り札」を手放したくなかったのかもしれません。ところが、その密約が事実上漏えいするという事態になります。「コザ暴動」の翌年昭和46年6月11日、「日米間で密約が存在する」という記事(実質上はそれをにおわせる記事となっておりました)が出たことから、「裏取引があったのか」という主張があったわけですが、その話は「沖縄」返還協定調印以後に持ち越されます。そんなこともあり、「沖縄」返還協定調印は波乱含みでありながら6日後の6月17日に調印されたのです。

と、ここで終わりなのかといいますと、この「密約」事件はさらに尾を引きます。返還協定が締結されて、半年後の昭和47年3月27日に、衆議院予算委員会で社会党議員の横路孝弘氏と楢崎弥之助氏が政府説明と正反対の内容の外務省極秘電文を公開。密約の存在を追求したことから、「密約」の存在について議論されることになりました。ちなみに、横路氏は現在も民主党の議員として、活動しております。
この「密約」は、取材記者である西山太吉氏が、女性書記官とともに逮捕される事件として発展し、結果的に最高裁まで審理が進んで結果的に、「密約」の存在も「なかったこと」とされてしまいます。

さて、「密約」はあったのか、その後、沖縄返還協定の密約のうち、もう片方の当事者であるアメリカ合衆国政府では、密約の存在を示す文書は既に機密解除されており、アメリカ国立公文書記録管理局にて公文書として閲覧可能となっておりますが、日本では、いまだに公開されておりません。

なぜ、こうなったのか…、なぜ、こうしなければならなかったのか、それを考えるとアメリカ合衆国の東アジア防衛の要として沖縄は重要拠点として考えると、これ以上最適な場所はないということが影響しているのかもしれません。

それでは、次回「06-14」では、その後の沖縄についての話です。そのあとは「7」に移ります。それでは。