沢の聞こえる渓流を旅する赤目ツアー 10

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「沢の聞こえる渓流を旅する赤目ツアー」の第10回。
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さて、地図から、私たちは荷担滝を目指していたのです。しかし、途中で時間がないことに気づき、仕方がなく、私と、「しまかぜ」氏は荷担滝へ行くのを断念して、引き返すことになりました。
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しかし、風景などの画像を撮りためているさなかで、
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あることを思い出しておりました。考えてみれば、この地域には、多くの忍者が修行していた場所という話を、今回の記事の初めでお話ししたのですが、伊賀国には忍者に関しての伝説が多いのか…、その理由について、下にある地図を使用してお話しします。
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実は、この地図の通り、伊賀地方はこのように周りを山々に囲まれた地域というのは、前回も触れたのですが、これが江戸時代に至って、文化を花開かせる人物を生み出すことにもなります。
ただ、軍事面で山々を駆け巡っていたということは、伊賀出身の人にとっては当たり前で、今でも職業に関係なく、
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こういった山野を守る努力をしているというわけです。

さて、この地域の近くに城下町が築かれた後、伊賀地方は上方文化を受けることになります。実際に、関西のNHK、各種民放でも伊賀地方の話題は入れているというのに気づくかもしれません。実際に関西文化圏の東の端に当たるのが、この「伊賀地方」でもあったことから、
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実際に、大規模文化圏である2都、つまり、京都及び奈良に近く(実際には、京都駅にJRを利用して向かう場合は、伊賀神戸駅からは1時間40分)、商都大阪にも近いことから(大阪難波駅まで1時間で行くことができます)、関西文化の影響を受けていると同時に、伊勢及び名古屋の街道の宿場町ともなりやすいということになってきます。
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その象徴的なものといえば、あの俳諧を芸術として高めた、あの方の存在なしには語れません。
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「鉄タビ」シリーズ(臨時便)で2度目の旅で、ご紹介した松尾芭蕉です。彼自身はもともと忍者だったのではないかとの説がありました。彼が著した俳句紀行冊子で最長といわれる『奥の細道』(出発地は東京深川で、途中に、平泉まで奥州道中{鉄道で言うと上野から平泉}、一旦酒田方面の新庄に入り、そこから最上川を下って、象潟まで{鉄道で言うと、一旦小牛田まで戻ってから酒田駅まで陸羽東西両路線を走破}、そこから、羽越・北陸路を京都方面に上り{鉄道で言うと、羽越本線から白新・弥彦などの路線を経て、北陸本線を走り}、米原から大垣へ至るルート)で歩いた距離数が2400キロ(上のルートで試算した総合計距離数で、直線で走らせると、鹿児島県鹿児島市から北海道稚内市を結ぶ距離に等しくなります)、それを5か月をかけて歩いているのです。1月に直すと平均で480キロを歩いたということになり、当時の太陰暦ですので、大の月が30日、小の月が29日で換算するので、この当時、8月までの奇数月と8月が30日、8月までの偶数月と9月が29日ということから、平均的には1日16~20キロほど歩いたという計算になるわけです。
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しかし、途中に地元で開催される句会に招待され、また、ある時には馬、船を利用しているということを頭に入れると、コンスタントに16キロを毎日歩くというのは非常に難しく、1日に30キロから40キロは歩いていたという点、さらにはこの旅をしていた松尾芭蕉の年齢は、数え年の45歳で、『奥の細道』文中にも、「この旅が、最後の旅になるかもしれないと思い、人に住んでいた家屋を明け渡し…」という記述があることから、その年で40キロの山中を歩く(実際にその記述はあるとのこと)、というのが信じきれないほどの脚力を備えていたとされております。
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主に、松尾芭蕉自身も、伊賀国の出身であったなら、山野を駆け巡り、脚力を鍛えていた可能性は高く、そのために、このような日程も可能だったのかもしれません。
ただ、この赤目ではなく、柘植の出身だったそうです。
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というわけで、私たちは最後の「雨降滝」に向かいます。次回「11」はそのお話しと、忍者というのがどうして、衰退したのかについてお話しします。それでは。