新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 07-1 「憲法とアジア諸国との間で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の「7」、つまり、1970年代に突入していきます。今までは、重要な政策を行ってきた内閣にスポットを当てたのですが、ここからは年代ごとに、1項目として扱うことになって行きます。

さて、本日はそのプロローグに当たる昭和47年です。この年は、佐藤栄作内閣が8年にわたる長期政権において、沖縄県などの返還を成し遂げたのですが、実は外交で大きな問題が待ち構えておりました。それは、中華人民共和国だったわけです。
実際にLT貿易など私貿易を行っていた両国ですが、しかし、冷戦下では対立関係であるアメリカ合衆国との関係で、国交回復ができなかったのです。ところが、
昭和47(1972)年にとんでもない事態が起きておりました。実は、アメリカ合衆国と中華人民共和国が国交を回復を宣言したのです。これには裏がありまして、ニクソン大統領の側近だったキッシンジャー大統領補佐官が、水面下で周恩来首相、毛沢東国家主席といった中華人民共和国首脳と会談していたことが背景にあったといわれております。
しかし、水面下ということなので、当然のことながら表に出ないわけですから、アメリカ合衆国からの、突然のお知らせという形で情報を得た佐藤栄作内閣は、まさに寝耳に水という混乱となりました。のちに「ニクソン・ショック」と呼ばれるこの事態、その関係で日本は、中華人民共和国との国交回復と、「平和条約」の締結を目指す上では、その引き金となった出来事でもあったわけです。

どういうことなのか…、国際関係をここで整理してみましょう。佐藤栄作内閣が「沖縄」返還交渉を行っていた昭和44(1969)年、東側の大国ソビエト連邦と、中華人民共和国が、ソ中国境で衝突する事態が起きておりました。その理由を探ると、昭和30年代にまでさかのぼるのです。実は、このころから中ソの対立が起きていたこともあります。フルシチョフ首相がここで関係してきますが、フルシチョフ首相は、1950年代から「スターリン批判」を展開し、中華人民共和国との関係が悪化したことが最大の背景にあります。
そして、国境線の問題から両国は昭和44(1969)年3月に軍事衝突となり、対ソ連の外交を展開していたアメリカ合衆国にとっては、願ってもないチャンスと受け止め、水面下の外交交渉を展開していったのです。
実は、中ソ国境紛争ぼっ発の翌年である昭和45(1970)年には、10月にカナダと、12月にイタリアと国交回復を成功させたことが大きかったとされていたわけです。そして、アメリカ合衆国との国交回復を見ていた日本は、中華人民共和国との国交回復と平和条約締結に向けて、交渉を加速させなければならなくなってきた…といった危機感を持つようになります。

なぜなら、今までアメリカ合衆国にとってパートナーとして、日本を守ってくれたということも影響しておりますが、アメリカ合衆国と中華人民共和国が接近していくのは、いわば中華人民共和国を、新たなアジアのパートナーとしてアメリカ合衆国が考えていることにつながっている。それなら、日本にとっては中華人民共和国との国交を回復するうえでは、重要なことになるのではないかという考え方があったからです。
しかも、ベトナム戦争を続けているアメリカ合衆国にとって、中華人民共和国の存在は決して無視できるものではないこともわかってきていたからかもしれません。
そこで、佐藤栄作氏が日中国交回復にすべてを託した人物が、田中角栄氏です。
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このお方、そしてだみ声、さらに「列島改造計画」を提唱したことで知られる彼ですが、外交関係で思い浮かべるとしたら、日中国交回復を上げる方が多いかもしれません。
座右の銘は「コンピューター付きブルドーザー」というものですが、何でもかんでも突進する「猪突猛進」タイプの政治家として有名ですが、実は「土木建設」業の社長さんという肩書などから、経済の関係に明るかったこともあり…、中華人民共和国の市場としての可能性を見抜いておりました。
彼には、もう一つ、今までの政治家にはない特徴があります。それは「学歴が小卒しかない」というものです。実際には旧制中学はおろか、高等教育は受けていないということの裏返しでもあります。しかし、大蔵大臣(現財務大臣)などを歴任しているのですから、能力が高かったことを表しているわけです。
さて、発足から2か月後、田中角栄首相は中国の首都北京に乗り込むことになるのですが、次回の「7-2」から、就任直後の田中角栄首相の国交回復交渉についてみていきます。それでは。