新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 07-2 「憲法とアジア諸国との間で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の「07-2」です。

さて、昭和47年7月、田中角栄氏が首相に就任後、中華人民共和国との国交回復への事業を託されました。
だからといって、そう簡単に進んだわけではないことになってしまいます。それがなぜかといいますと、これは佐藤栄作氏が第3次内閣を担当していた時代に一旦戻って、お話ししていきます。
佐藤栄作首相が昭和47年2月、米中が水面下で接近していった事態を見て、対応しようとしていたのですが、彼自身が積極的に対応できるとは言えない状況でした。なぜそうなったのか、その理由は中華人民共和国の成立に大きく関わってきます。
また、さかのぼりますが、中華人民共和国と呼ばれる現在の赤い国旗をイメージする「中国」が生まれたのは、昭和24年10月1日。つまり現在の「国慶節」といわれるお祭り騒ぎのような連休ができたのはあとからの話ですが、この時に中華人民共和国がユーラシア大陸にできたわけですが、この時に対立していた勢力が、海を隔てた島に勢力を張りつつありました。
それが、台湾に勢力を張っていた「中華民国」です。実は、私のブログでも「鉄タビ」編で「中国と日本の関係に迫るたび」のシリーズでお話ししたのですが、かつて中華民国の建国者だった孫文氏が、がんで急逝した直後、中国国民党と中国共産党との間で内部抗争が勃発し、それが「上海クーデター事件」となってしまうという事態へ、昭和11年の「8.1宣言」によって、日本との戦争による対決姿勢を強めますが、9年後に再び内戦を経て、台湾に移るという形となります。
では、国際情勢ではどうだったのかといいますと、昭和47年までの27年間「中国」とは「中華民国」であるという形が定着していたのですが、そもそも、ユーラシア大陸のほうの「中国」を代表していないのではないかと言う疑問も、各所から上がっており、次第に台湾の存在が薄れゆくことになります。実は、昭和26(1951)年
の「サンフランシスコ講和会議」において、日本と「中華民国」との間には、「日華平和条約」というものが結ばれていましたが、同時に池田勇人氏が首相となった昭和35年以降のLTおよびMT貿易(本シリーズの「05-5」で触れました)で、民間による接触が強まって行くことになります。
ところが、台湾(「中華民国」)擁護派からは、冷戦思考から抜け出せないためか、中華人民共和国側の出方に不信感を抱く国会議員も中にはいたそうです。有名どころでは、元東京都知事の石原慎太郎氏、さらには晩年コメンテーターとして活躍し、バラエティー番組にも出演したことのある浜田幸一氏も、実は自民党内では、この派閥にいたそうです。
この事態を複雑化させたのが、国連加盟国問題です。どういうことかと申しますと、中華人民共和国を国連加盟国に引き入れるという案でした。しかし引き換えといて中華人民共和国が要求してきたのが、「中華民国」の排除です。これは、中華人民共和国が掲げていたことに関係しているのですが、「中華人民共和国は一つの国家である」という理念に基づくもので、「中華民国」があるのは、不自然であり、また「中国国民党」は、中華人民共和国の根幹である「中国共産党」を排斥した事もあるという因縁の相手でもあったのです。これでは、「呉越同舟」になりかねない。
こういったこともあり、重い決断を迫られたわけです。

実際に、日中間の国交正常化交渉はどう進んだのでしょうか。
アメリカ合衆国との接触を受けて、さっそく田中角栄首相は、アメリカ合衆国駐日大使に中華人民共和国を、中国での唯一の政府と認めるという意思を伝えます。これが昭和47年7月19日のことで、1月後の8月31日と9月1日の日米首脳会談では、ニクソン大統領にも中華人民共和国との国交正常化を行うということを伝えていくことになります。
つまり、日米間では、ある程度の段取りはついていたようなのです。そして、9月25日に田中角栄首相は自ら中華人民共和国の首都、北京に乗り込みます。実は、本格的な国交回復交渉は、なんとスタートラインに立ったわけで、下準備の交渉を行っていて、間接的な接触は2か月前に当たる7月25日から始められていたのです。公明党の委員長だった竹入義勝氏は、この時に中華人民共和国首相周恩来氏と会談し、国交回復の諸条件を導き出すことに成功します。
それが「竹入メモ」と呼ばれるものです。内容は代表的には以下の8点でした。

1.「国交回復三原則を十分理解する」
2.「唯一合法政府として認める」
3.「共同声明で戦争状態を終結する」
4.「戦時賠償を放棄する」
5.「平和五原則に同意する」
6.「覇権主義に反対する」
7.「唯一合法政府として認めるならば復交3原則の台湾に関する部分は秘してもいい」
8.「日米安保条約を容認する」

といったものです。これを受け取った田中角栄首相は、北京に乗り込むことを決断したとされております。日本側の代表では、首相と大平正芳外相を中核とした8名が、中華人民共和国側も、周恩来首相を中心とした8名で交渉に臨むことになります。
ここでは、「日華平和条約」の停止と共同声明による国交正常化、新安保条約の承認を取り付けて、1日が終わります。ところが、その夜の晩餐会での発言が思わぬ事態を引き起こします。まず、レセプション側の周恩来首相は「双方が努力し、十分に話し合い、小異を残して大同を求めることで中日国交正常化は必ず実現できるものと確信します。」と挨拶し、田中角栄首相のあいさつを待ちます。
それに受け答えをする形で、首相が「過去に中国国民に多大なご迷惑をおかけしたことを深く反省します」と挨拶したのです。
この「ご迷惑」が、実は大きな障害となって立ちはだかります。
26日の交渉で、空気が一変し、「ご迷惑」発言の真意、高島条約局長の「日華平和条約との整合性」発言で、いろいろと交渉が困難になりかけましたが、急遽大平正芳外相と、姫鵬飛外相との緊急会談で、「台湾の中国の一部」という主張に配慮すると同時に、「ポツダム宣言に基づいた立場を堅持していく」という方針を伝えることになるわけです。
次の27日からは、そのほかの共同声明に対しての文言調整が行われます。ここで、

3.「共同声明で戦争状態を終結する」

という部分の内容で、交渉が続けられます。ここで、現在問題となっている尖閣諸島に関しても取り上げられたのですが、周恩来首相は「この問題は、今話し合っても相互の利益にはならない」と主張し、ほかの部分での調整を図ることになるわけです。
そして、3.をどのように表現したのかですが、下のようになります。

戦争責任については「深く反省の意を表する」という表現にする。
また、戦争状態の終結については「不正常な状態の終結」とする。

とすることで決着します。

こうして、電撃的な首相訪中からわずか4日というスピードスケジュールで出来上がったのが「日中共同声明」、正式には、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」という声明文が出されたのです。これによって日中の国交が正常化されることになります。
ジャイアントパンダ
これより、日中間の交流等が進むことになって行くのですが、それに関して進展があったのが「残留孤児問題」と呼ばれるものです。これは30年近くにわたって行われるのですが、現地生まれの子供たちが、戦時中に肉親と離れ離れになったあと、元の家族を探すために日中両政府が取り組んだ問題の一つですが、これも日中国交回復以降に始まったものでした。

しかし、日中間両国は条約締結に向けて歩みだしますが、それにはなお6年の年月を擁すことになります。

次回、「07-3」では日中国交正常化後に起こった現象と、田中角栄首相の描いた日本について、お話しします。それでは。