新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 07-7 「憲法とアジア諸国との間で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の第47回です。

田中角栄氏が内閣を総辞職し、バトンが渡った三木武夫氏は、「ロッキード事件」の捜査で自らの首を絞めるという事態に見舞われ、総選挙の結果責任を追って総辞職となった後、自民党と首相として日本国を背負った人物が、本日ご紹介する福田赳夫氏です。

彼が日本国の首相として在任したのは、わずか2年と短い期間であったのですが、その間に多くの事件に遭遇します。日本初の海外テロ事件については、次回の「07-8」でお話しするとしまして、今回は、福田赳夫氏が果たした「光」の部分を2つご紹介します。一つは、「サミット」こと「先進国首脳会議」で、二つは「日中平和友好条約」締結のお話しがメインとなります。

福田赳夫氏が首相となったいきさつというと、「三木おろし」の激化に伴って三木武夫氏が内閣総辞職を行うと、自民党内では、福田赳夫氏と大平正芳氏の二人が抜きんでているという状況が作られることになります。そこで二人が立ち上げている派閥のナンバーツーといわれた園田直氏と、後の首相となる鈴木善幸氏、さらに両トップを含めた極秘会談が交わされ、福田赳夫氏を首相として2年在任させ、2年後に禅譲(禅譲とは、トップの位を平和裏に次位に明け渡すという用語、反対語は、簒奪で武力を用いるか用いないかの違いがあります。中国では禅譲によって政治体制が変わったという歴史があり、三国志の「後漢」から「(曹)魏」への例、さらには、帝瞬から帝禹への例がこれに当たります。)するという確約を結んでいました(これが「大副密約」とされておりますが、実際に禅譲は行われたのか、それは「07-8」の終わりで…)。
この関係から、福田赳夫氏が首相となり、政権を担うことになって行きます。さて、
福田赳夫氏が首相となる前に、三木武夫氏が首相の時代、先進国首脳会議に2回、出席しておりましたが、実際に、主要国で議題となっていたのが昭和48年から続くオイルショックと、それに伴う不況の改善に向けた主要国財務省首脳会議を開いたのがきっかけとなり、昭和50年にサミット、先進5か国首脳会議が、フランスのランブイエ(上の画像が会場となったランブイエ城)で開催されます。
そこに、招待されていなかった国も参加しておりました。それが、イタリアですが、この会議に関して不服があるとしてフランスに乗り込んできたのです。
実は、フランスとイタリアは、1000年近く遡るフランク王国分裂の時代から、仲が悪いことで知られており、フランスとドイツももともとは仲が悪かったことで知られております。
その翌年の昭和51年に、アメリカ合衆国がカナダの加入を要請して7か国となり、昭和52年と53年の日本側代表として赴くことになります。その彼が、提唱していたのが、アジア諸国との連帯を意識した「福田ドクトリン」を掲げ、外交の基本姿勢は「全方位平和外交」を掲げておりました。これは、安倍晋三首相が掲げる「地球儀を俯瞰する外交」とも酷似しており、もともとの岸信介氏が掲げた戦略にも類似した点が見られます。
ただ、唯一相違する点といえば、中華人民共和国との関わり方です。

実は、中華人民共和国では、昭和47年9月の「日中共同声明」で「平和友好条約の締結を目的として交渉を行うことに合意」をしていたことがあり、交渉が始まったのですが、事務レベル協議が長引くということになってしまいます。その間に、日本では、首相の交代が2度、隣国(大韓民国)との大陸棚に関しての協定(日韓大陸棚協定{締結は昭和49年})の交渉等もあって、停滞していたのです。
また、中華人民共和国側にも、同じことが言えており、昭和44年から始まっていた中ソ国境紛争は3年たっても続いたままで、最終的には20年後の平成元年に、ソ連のゴルバチョフ大統領の訪中に至るまで続く上、昭和51年には、中華人民共和国の創始者である毛沢東主席、周恩来首相が相次いで死去(実は、周恩来首相が亡くなった後を追う形で、毛沢東主席が死去しております)するという事態に陥っており、日中とも厳しい時代にあったということになります。
また、中華人民共和国は、毛沢東主席の死去が「文化大革命」を終わらせることになり、混乱の時代から立ち直ろうとしていたさなかであったわけです。

昭和51年当時の外相で、平成に至ってようやく首相となったものの、比較的短命に終わってしまった宮澤喜一氏は、国際連合の総会に出席した後、喬冠華外相と会談、「宮沢四原則」を喬外相に提案します。
内容は、アジア・太平洋のみならず世界のどこでも覇権には反対する、覇権反対は特定の第三国をに向けられたものではない、日中の共同行動を意味しない、などを骨格とするもので、近年でこれに似た言葉を耳にしますよね。
これは、ある議論に一定の決着をつける形となりました。それは、「反覇権」問題というものです。昭和49年11月に当時の韓念竜外務次官が来日した際の事務交渉の議論で、中国側の対ソ戦略としての「反覇権」条項が含まれていたことが発端でした。
つまり、この4つの原則は、反覇権条項の反ソ性を中和するもので、昭和50年11月に日本側からの妥協案を中国側に提示したことを意味していたわけです。
ところが、昭和51年にソ連外相のグルムイコ氏が来日、日中交渉を行うことを苦々しく思っていたのであり、牽制ともとれる発言することになりました。これも中ソ国境紛争の影響といえるかもしれません。

結果的には、昭和51年の周恩来首相、毛沢東主席の死去した後から、交渉は加速するかに見えました。ところが、文革で失脚して周首相の下で復活した鄧小平が周首相死去の際の天安門事件で再び失脚してしまう上、その年の9月に、江青を含む四人組が逮捕された為に、混乱は収拾されたことから、交渉は加速していきます。
翌昭和52年7月、鄧小平氏が副首相に抜擢されたことも、交渉を加速させた出来事の一つでした。つまり、日中双方で、交渉を行う条件が整えられたのです。
しかし、難航する要因は、「反覇権」条項だけではありませんでした。もう一つの問題は「第三国」条鋼の問題です。この交渉では、「反覇権」が第三国に対するものではなく、日中の共同行動を意味するものでないとする従来からの日本側の立場への配慮を示したということで、それを受けた日本側は、交渉を開始、7月に入ってから一か月を要した交渉が行われます。ここで、反覇権は「第三国に対するものでない」とする日本側の立場とそれに強く反発する中国側とでまた難航、園田直外相の会談以降、第三国条項について、「第三国との関係に関する各締約国の立場に影響を及ぼすものではない」と表現に改められ、8月12日に調印することに反覇権条項については「アジア・太平洋地域においても又は他のいずれの地域においても、覇権を求めるべきでなく…いかなる国または国の集団による試みにも反対する」と明記することで妥協した訳です。

この結果を受けて、日本と中華人民共和国との平和条約の締結は、戦争状態といわれた日中だけでなく、冷戦下にあった世界の流れを変え、鄧小平氏指導による「改革開放路線」を行ううえで、重要な役割を果たします。
しかし、外交面で福田赳夫首相が成果を上げたのですが、同時に苦い経験もしております。それについては次回「07-8」でお話しします。
それでは、次回を楽しみに。