新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 07-8 「憲法とアジア諸国との間で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の第48回、1970年代も後半に入っているという中で、福田赳夫氏が組閣し、「日中平和友好条約」の締結を実現したのですが、その陰で、苦い外交経験を余儀なくされたということを、前回の話で少し触れました。今回は、その陰となってしまい、10年以上も前から続いているアメリカ合衆国を中心とした「対テロ戦争」と地理的にも関係するお話しをしていきます。その前に、初めてお越しになられたお方と、以前の回の内容を忘れたお方には、この下地としまして、本シリーズの「06-8」と「06-9」、「06-10」がリンクしておりますので、併せて参照してみてください。

ということで、前置きが長くなってきましたが、さっそく本題に入ります。
06-10」の最後で触れたのですが、「赤軍」グループは、昭和47年の「あさま山荘事件」をきっかけにして、分裂してしまうことになり、昭和45年に朝鮮民主主義人民共和国にわたった「よど号ハイジャックグループ」は、そのまま日本に帰国を果たさないということになり、「連合赤軍」派は解体した後、「日本赤軍」グループが、中東の紛争地帯で活動を始めることになるとお話ししたのですが、さっそく、その昭和47年5月に、イスラエルの重要都市であるテルアビブにあるテルアビブロッド国際空港で銃の乱射テロが発生したことから、「日本赤軍」という組織が注目を集めます。
ここで絡んでくるのが、昭和47年当時のイスラエル情勢です。本シリーズ「07-4」の中東戦争と第一次オイルショックの遠因の可能性もあるといわれていますが、この問題はパレスチナ解放機構(PLO)と関係の深いパレスチナ解放人民戦線(PFLP)と呼ばれる組織が「日本赤軍」に依頼して行わせた事件とされており、乗客を含めた26名が死亡するという当時としては前代未聞のテロ事件となります。
これに慌てたのが、当時の内閣を率いていた佐藤栄作氏で、イスラエルに対して謝罪と賠償金として100万ドル(当時のレートで308円なので3億8百万円)を支払うことになります。この事件の後に、強化されたのが皆様も航空機搭乗時にチェックされる「手荷物検査」の徹底ということです。それが世界に広がるきっかけを作った事件で、パレスチナ解放人民戦線と共同声明を読み上げた重信房子氏は、「日本赤軍」結成を宣言します。
その翌年、昭和48年7月20日に「ドバイ日航機ハイジャック事件」で、結果的にはドバイ、シリアのダマスカス(現在戦闘が行われているシリア内戦の地域)を経由して、リビアのベンガジベニナ空港に着陸させ、150人の人質を解放後、航空機自体を爆破(荷物は積んだ状態のまま爆破されました)、その間、乗客乗員は着替えなどがなく過ごしたという形で終わり、その後もシンガポール、クウェート、ハーグで翌昭和49年にテロ事件を起こしており、その都度、日本国政府は悩まされる事態となっておりました。
Douglas DC-8-62, Japan Airlines (JAL) JP6862131.jpg
それから3年経過した昭和52年、福田外交を揺るがす大事件が起きてしまいます。それが9月28日のことです。バングラディシュの首都ダッカジア国際空港で起きた「ダッカ日航機ハイジャック事件」です。
この事件の発端は9月28日にフランス共和国パリシャルル・ドゴール国際空港発東京羽田国際空港行きの日本航空472便が、途中のダッカでハイジャックに遭遇するという事態になります。

しかし、カルカッタを離陸した後、ハイジャックが発生、600万ドル(ちなみに、当時のレートでは、266円のため16億円)、そして9人の政治犯の釈放、同時に「日本赤軍」への参加を求めてきたのです。
そこで、対応に苦慮したのが福田赳夫首相です。実際に、9月28日に発生後、それぞれ一人ずつの人質を殺害するという脅迫があり、且つ、「アメリカ合衆国の人質を先に殺害する」という条件が付けられたため、急を要す事態に発展してきました。その「アメリカ合衆国の人質」というのが、「引退してから有名になった元大統領」といわれるようになる(当時は現職)ジミー・カーター氏の友人という、情報がもたらされていたのです。
実際に、犯行グループも、そのことには気づいておりましたので、条件に出してきたのだといえます。
そして、その対応に悩んだ挙句、福田赳夫首相が述べたのが、「一人の生命は地球より重い」と言う発言だったのです。彼の考えからしてみれば、日本とアメリカ合衆国の関係を重視し、世界平和の観点からしても、この人物の殺害はなんとしても食い止め、関係の維持をしていきたいという考えが働いての結果だったのかもしれません。

こういった形で外交での敗北を味わった福田赳夫首相にとって、今回の事件の解決をするにはどうするのか、それは犯人の要求を呑むことしか選択肢は残されていませんでした。
ところが、この発言が10月1日、翌10月2日にはバングラディシュ政府内でクーデターが発生するということが起きるなど(クーデターは実質収束します)、混乱はありましたが、結果的には、彼らを第3国に送ることで、何とかなりました。

これが、対テロ戦争とどう関係してくるのでしょうか…。それについては、次回「07-9」で、大平首相に代わった後については、「07-10」から始めます。その直後の「07-11」からは、第2次オイルショックと選挙中に、首相が亡くなるという事態を経験するのですが、「07-12」が総選挙中の首相死去テーマでお贈りします。

ということで、それでは。