大回りして大覚寺へ 06

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「大回りして大覚寺へ」の第6回です。
イメージ 1
私と「しまかぜ」氏は大覚寺の境内に入ることになりました。ここから、玄関を写すことができなかったので、Wikipediaの画像でお茶を濁します。申し訳ありません。
Daigakuji.jpg
この画像の左奥から入ることになります。中央にある門は、式台玄関の門だと思われます。つまり、平安時代から江戸末期、幕末に至るまで、天皇の勅使が訪問する門は、この後登場してい来るのですが、それまでお待ちください。
実は、その隣にあるのが、東福門院後水尾天皇中宮)の旧殿を移築したものと伝え
られる宸殿に向かいます。ここで、伽藍内の地図を、頼りに案内していきます。
(こちらは大覚寺のホームページから拝借しました)
宸殿の位置は①のほうです。ここからスタートします。
イメージ 2
さて、宸殿に入ってすぐなのですが、奥に見えるのが地図⑦の勅使門、その前に何があるのか、少し不思議ですが、実は、遠く中華人民共和国の紫禁城にも似たような施設があり、天台と呼ばれるものだと思われます。
そこから、北東奥に伸びる伽藍の廊下を歩くまで、撮影したかったのですが、お庭以外の撮影は原則禁止にしている私にとっては、ここも撮影したいなという欲も出てしまいそうですが、そこは我慢というところでしょうか。さて、勅使門の画像を出したのですが、その勅使門側から見ると、宸殿はこの姿で写ります。それが下の画像です。
(こちらも、大覚寺のホームページからお借りしました。)
この宸殿には、諸説あり将軍徳川秀忠(慶長8年から将軍に就任)の娘、和子姫の女御御殿の宸殿を移築したのが、この宸殿とされております。ちなみに、山川出版社刊行の『京都府の歴史散歩』では「後水尾天皇の旧紫宸殿では?」という指摘もありますが、大覚寺のホームページでは、女御御殿の宸殿とされており、どちらかははっきりしていません。
ただ、後水尾天皇が在位した期間は慶長16(1611)年から、寛永6(1629)年までの18年間、その間に公家諸法度制度にもかかわってくる「紫衣事件」等、歴史の舞台にも登場してくる天皇ですので、中宮となった和子姫が、入内したのが元和6(1620)年ですので、少なくとも9年後には宸殿の移築があったとされております。
ちなみに、後水尾天皇が上皇として譲位したのが寛永6年、江戸幕府との協調にかじを切った徳川家光(当初は対立していた)との関係から、法皇となって院政を行うことを江戸幕府が認めたということにより(寛永11年にその条文があったとされております)、寄進したと考えられます。ただ、『京都府の歴史散歩』では、そのことを考慮した説という考え方があると考えられます。
さらに言うと、この「宸殿」の「宸」の文字は「皇帝」という意味があり、皇帝というのは、古代中国で、「北極星の帝王」をさす言葉とされております。
さて、私と「しまかぜ」氏は、廊下を経て次の場所に向かいます。これは、地図②の
御影堂です。実際に、御影堂は高僧をまつる場所として知られております。実は建造が大正14(1925)年となっており、100年もたたない比較的新しい寺院建築物です。
この大覚寺を建立した一人、嵯峨天皇が御崩御されてから600年目に当たることからとされており、平成37(2025)年には700年目を迎えるとされているわけです。
ここには、嵯峨天皇と深くかかわっている弘法大師空海の御影も安置されております。
嵯峨天皇と空海の関係は、嵯峨天皇との関係についてですが、空海が遣唐使から無断で帰国したことから始まります。しかし、桓武天皇の崩御の後、平城天皇を経て、嵯峨天皇へと天皇の交代が相次ぎ、さらには「藤原薬子の変」が発生した混乱を鎮めるために、天台宗とは異なり、真言宗の空海のパトロンとして保護したのです。

その関係から、空海が高野山に真言宗総本山「金剛峰寺」を開くことができたのは、醍醐天皇の力が大きかったということを意味しております。
イメージ 3
実は、高野山は開山から今年で1250年を迎える祝賀の年でもあり、ゆかりのある大覚寺において、祝賀行事があるのかと思いきや…。ホームページでも「そんなん関係あらしまへん」というように、なにもありませんでした。
この後、そのまま進み、五大堂(上の画像は大覚寺のホームページから拝借しました)に向かうのですが、途中に、安井門跡蓮華光院の御影堂を通り抜けていきます。
イメージ 4
この画像で、終わりといたします。次回は五大堂からお話しを始めていきます。それでは。