新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 07-9 「憲法とアジア諸国との間で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の第49回をお届けします。昭和52年の「ダッカハイジャック事件」の続きから始めます。

ではなぜ、この「ダッカハイジャック事件」と対テロ戦争が関係するのか、
実は、日本赤軍が活動していた場所と関係があります。イスラエルを含む中東パレスティナ地域は現在PLO、つまり「パレスティナ解放機構」という組織が、ユダヤ民族国家の「イスラエル」の周り、つまり、東エルサレムを含む地域と、ガザ地区を統治している組織によって運営されておりますが、この地域のガザ地区はイスラム抵抗運動組織「ハマス」が実効支配しているといわれており、PLFP、いわゆる「パレスティナ解放人民戦線」は現在でも活動を行っているといわれております。
ただ、「パレスティナ解放人民戦線」と生い立ちが異なる「ハマス」とも対立しており、「アルカイダ」とも成立背景は異なります。しかし、この組織が勃興したり、隆盛を誇っていたのが、まさに1970年代の終わりから、1980年代、元号で言うと、昭和50年代から昭和60年を経て、平成元年に当たる期間となっております。
結果的には、40年前の冷戦期に起こった出来事が、今の対テロ作戦とリンクするのが皮肉な部分ですが、そういうことになってきてしまいます。
では、この時点で「ダッカハイジャック事件」の意義を考えていくと、「対テロ」対策の難しさ、そして「テロ組織」と交渉するという点の難しさが現出した事件であることには間違いありません。そして、これらの反省点を、次の世代にどのように生かしていったのか、それについても検証することが求められているとされております。
その一つとして、日本でも警察特殊部隊が創設され、その存在が後に日本国内で起こったハイジャック事件に生かされています。
この意義は「日本」の「対テロ対策」の芽を植え付けるきっかけとなったことには間違いありません。

さて、その話の感想の後ですが、実は、この特殊部隊の創設の翌年となる昭和53年に、「日中平和友好条約締結」を成し遂げ、さらに長期政権の実現と思われた福田赳夫首相ですが、昭和53年の年末も押し迫る中で、大平正芳氏への禅譲を反故にしたこともあり、大平正芳氏と総裁選を争うことになります。この後ろで全てを動かしていたのが、元首相の田中角栄氏ですから、闇で政治が行われていると揶揄されることも避けられない状況でした。
総選挙の結果は、福田赳夫氏の敗北と大平正芳氏の勝利で終わることになります。その中で、
Yoshiro Mori cropped 2 Tim Hitchens and Yoshiro Mori 20150623.jpgKoizumi 2010 cropped.png
ここで、この当時、福田派に所属していた元首相の森喜朗氏(左)と、21世紀に入っての長期政権といわれる元首相の小泉純一郎氏(右)は、福田赳夫氏に対して、「本選挙(国会議員の投票による選挙の意味)に打って出るべき」と説得したそうです。
しかし、
Takeo Fukuda 1977 adjusted.jpg
当の福田赳夫氏は、頑として本選挙に打って出ないまま、首相を辞任します。実は、後にも先にも現役の総裁兼首相が、総裁選という内部の選挙で敗れたのは、この福田赳夫氏だけであり、前代未聞の棚から牡丹餅のような幸運に預かった大平正芳氏は、第2次オイルショックなどの難局に立ち向かうことになって行きます。

さて、その福田赳夫氏はというと、敗れた会見の席上で、「民の声は天の声というが、天の声にも変な声もたまにはあるな、と、こう思いますね。まあいいでしょう! きょうは敗軍の将、兵を『語る』でいきますから。へい、へい、へい」(1993年12月31日放送TBSテレビ「自民党戦国史」の映像より【出典:Wikipedia『福田赳夫』より】)と、爽快な回答を行うなど、数多くの造語の名手とも言われました。中でも、現在ニュースで登場する「狂乱物価」言葉も、彼が命名したといわれております。

一方で、後を受けて首相に就任した大平正芳氏は、そのあとを受けて、首相として日本のかじ取りを担うことになりました。このシリーズではこれで3度目の登場となります。初めての人は「はて、なんで3度目なの?」と思われたかもしれませんが、本シリーズの「06-3」の「日韓基本条約」の回で、「金・大平メモ」に登場してきた池田内閣の外相こそ、この大平正芳氏で、それから10年後、つまり、シリーズ「07-2」の「日中国交回復共同声明」にも、田中内閣の外相として出席する等、歴史の転換点に絡んでいた人物でもありました。

さて、彼にはこんなあだ名があります。「アーウー宰相」と、これについて、皆様は「鈍重」なイメージがあるかもしれませんが、実際には、かなりの切れ者で、ユーモアも交えての発言も多いことで知られておりました。そのことを本人はこのように答えております。

私は長い間戦後で一番長い外務大臣をやらせて頂きました。私に質問が集中致します。その人に答えなければなりませんが、外務大臣の答弁というのは、ワシントンもすぐキャッチしております。モスコー(モスクワ)も耳を傾けております。北京も注意しておるわけでございまするから、下手に言えないのであります。そこで、『あー』と言いながら考えて、『うー』と言いながら文章を練って、それで言う癖がついたものですから、とうとうそういうことになったのでございますが、私は悔いはございません(Wikipedia『大平正芳』より抜粋)

このように述べている点を考えると、謙虚さが見え、実際に「戦後政界一の知性派政治家」と評価されております。しかし、就任直後に発生した「イラン革命」と、それに続く「第2次オイルショック」に奔走することになります。
昭和54年2月に「イラン革命」が起きたあとに、イランでの石油輸出ができないという状況に陥ったことが背景にありますが、前回の「第1次オイルショック」の教訓を生かしたことから乗り切ることができたとされております。

その難局以外での、功績といえば内政では「田園都市構想」と呼ばれる都市と地方の格差是正政策を打ち出します。詳しい内容は、竹野克己氏の『大平正芳内閣の「田園都市国家構想」と戦後日本の国土計画(PDFファイル)』、東洋経済新報社刊『東洋経済新報』の「地方創生は大平元首相の田園都市国家に学べ(リンク切れが起きる可能性があるのでお早めに)」、橋本武氏の『歴代総理大臣の国土ビジョンを読む・その2「田園都市国家の構想」(1980 年)(PDFファイル)』で、ご覧になることができますので、そちらをご覧頂きください。
また、外交では、「環太平洋連帯構想」、「総合安全保障構想」というビジョンを提唱していくのですが、実際にはその構想は、後の内閣に引き継がれていきます。なぜなら、「環太平洋連帯構想」は、後々のTPPにもつながる経済的な地域協力の先駆けたるもので、「総合安全保障構想」は、地域経済及びエネルギー供給を地球規模で統括していくという「国際社会に対しての責任の明確化」という観点を持つと同時に、中華人民共和国を経済のパートナーとして重要視する、後の「日中戦略的互恵関係」の先駆けとなる提唱であったわけです。

しかし、大平正芳首相が在任できたのは1年ほど、その間にも政治抗争はまだ繰り広げられておりました。次回「07-10」は、就任早々に起こってしまった福田赳夫氏との確執について迫ります。実は、この後変更がありまして、「07-11」では、2度の「オイルショック」が起こした世界の潮流について、最終は「1970年代の終わりは、大平正芳氏の死去だった」ということをお話ししていきます。それでは。