新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 07-12 「憲法とアジア諸国との間で揺れた時代」

さて、1970年代の終わりになって登場した大平正芳氏を首班とする大平内閣ですが、内閣の運営はこれまで説明してきたように、かなり不安定な状態でした。昭和54年に「40日抗争」等で説明してきました。そして、この状況は、「角福」戦争に終止符が打たれることになるのです。

昭和54年。自民党の中で首相指名が分かれるという、前代未聞の事態が起きたあと、大平正芳氏が首相を続投させるということになったものの、政権基盤事態は田中真紀子氏の父親である田中角栄氏が率いた田中派が支える構造となっておりました。
つまり、田中角栄氏と対立する福田赳夫氏にとっては、大平正芳氏の政権続投を面白く思っていません。
だからこそ、そのためには自らが、再び政権の座につくという考え、基、野望を持っていたと解釈してもおかしくなかったわけです。
一方、当の大平首相にとってみれば、野党との論戦以外にも、与党内に野党的な勢力があるということを意味しており、その点では「内憂外患」という状態になってしまいました。その状況が顕著に表れたのが、今回取り上げる「ハプニング解散」です。

昭和55年5月、浜田幸一氏がラスベガスでのカジノ疑惑が発覚などで、野党の筆頭格である日本社会党は、この時とばかりに、なんと「不信任」を提出することになったのです。
当時の委員長の飛鳥田一雄氏は、これにおいて、KDD(現在のKDDI)と大平首相の贈収賄疑惑といわれたKDD事件の証人喚問を要求したのです。しかし、野党だった公明党、民社党(後の民主党の一部となります)がその「不信任案」を受け入れることになりました。
しかし、それでは、「可決」とはなりません。主に、「否決される」という公算が強かったのです。ところがです。

実は、反旗を翻した自民党勢力とは、何を隠そうあの反主流派3派閥です。福田及び三木派と中川グループがそれに当たります。一方で野党では彼らの行動に関しての危険性を認識していた人もいました。民社党の春日幸一顧問は「自民党内の反主流派の動向が掴めないため、不信任案を提出することは危険だ」と、危険性を指摘していたのです。
結果的には、社会党と公明党の申請したことから「不信任案」が提出されることになりました。いわゆる、この時に勝負だから、この時点で彼らがどう判断するのかに任せようというのが本当の狙いだったのかもしれません。

当の反主流派では、否決票を出すか、欠席するかでもめにもめました。これに嫌気がさしたのか、それについては不明な点がありますが、中曽根康弘氏が率いる中曽根派は、反主流派を土壇場で離脱して否決票を投じます。しかし、それも雀の涙に近く、賛成票が243、反対票が187という、憲政史上まれにみる前代未聞の内閣不信任案可決という事態が起きてしまうのです。これによる「ハプニング」という意味から「ハプニング解散」と命名されたのですが、大平首相の対応も早く、解散総選挙に打って出ることになりました。
前出の民社党春日顧問は、この知らせに驚いて「切れないノコギリを自分の腹に当てやがって」と嘆くことになります。これは、野党自体が、未熟だということを案に示す格好となってしまいました。

ところが、それから1か月後の6月、あろうことか首相の大平正芳氏が亡くなるという事態が発生します。その間にいったい何があったのかですが、自民党執行部は反対票を投じた候補を、第1候補とし、欠席した議員を第2候補として、選挙を戦うことになりました。実は、病魔が突然大平正芳首相に襲い掛かったのは、5月30日です。実は、大平氏は高齢であることもあって、過労と不整脈で、ダイナマイトの原料としても知られているニトログリセリンを服用して、命脈を保っていたのです。この日、彼は緊急入院したのですが、それから13日の看病もむなしく、息を引き取ります。享年70。まさに選挙期間中の現役首相の死去は、さかのぼれば、昭和7年の5・15事件の犬養毅氏が暗殺されたケースを含めて3例、しかも病没というのでくくると、大正15年の加藤孝明氏にまでさかのぼるという事態でもありました。

まさに、前代未聞の連発となったこの選挙は、同情票が集まる結果となりました。結果的には田中系統の鈴木善幸氏が次の首相となります。その後、一時反主流派だった中曽根康弘氏が首相となり、「角福戦争」は終止符を打ったかに見えました。

ところが、裏でくすぶり続けた反逆の炎が消えていなかったことを考えると、その内訌を抱えながら、自民党政権は怒涛の昭和55年代以降の時代を迎えるわけです。

さて、次回からは「08」へと向かっていきます。つまり、西暦では1980年代、このころの日本は、アジア関係の改善に関して足踏みが続きます。ということで次回をお楽しみに。それでは。