新シリーズ 平和と戦争の間で揺れた日本 08-6 「アメリカ合衆国の協調と憲法で揺れた時代」

本日の話題の2本目は、「歴史もの」から「新シリーズ」の第58回、ついに国鉄民営化のお話に入ります。

さて、この昭和50年代というのは、「日本国有鉄道」が曲がり角に差し掛かった時代でもありました。そして、その最たるものとして「日本国有鉄道」の「スト権スト」が多発するようになります。その中でも最大級のストライキが起きたのは、昭和50年11月26日から12月3日にかけてのストライキで、「スト権スト」というとこのことを指す人が多いそうです。
しかし、このストライキは結局成功せず、貨物系統の利用者離れが加速、高速道路網の建設が急ピッチで進められたこともあって、貨物列車、荷物列車の削減が行われて行きました。

そして旅客面でも減量ダイヤなどが実施されておりました(昭和55年以降)。彼らが列車の削減などを行わなければならかった最大の理由は、巨額の赤字という財政問題でした。
イメージ 1
この話をする前に、「日本国有鉄道」の誕生に触れてみましょう。鉄道は、明治5年の東京新橋駅から、横浜市の桜木町駅までを走った丘蒸気を最初とするのですが、明治5年から昭和24年にかけて、日本の在来線公営鉄道は国家が管理しておりました。GHQは、直接的な国家権力行使とは切り離される鉄道は国家の管理にしてはならないという考え方を打ち出したことにより、政府出資の鉄道公社として「日本国有鉄道」が発足することになったわけです。

しかし、純粋な民営化へとかじを切った最大の要因というのは、それから15年後の昭和39(1964)年の「東海道新幹線」の開業まで下ってきます。
イメージ 2
東海道新幹線はわずか5年ほどで、開通した鉄道技術の粋を集めた結晶といったものであり、世界の高速鉄道を勃興させるきっかけとなりました。が、この話を財政面で見てみると、決して成功したという話ではなかったともいわれております。なぜなら、世界開発銀行からの融資を受けて完成させたので、その時点から以降は赤字体質に変化し、さらにほかの都市、つまり東北地方、上越地方、北陸地方に新幹線建設が検討されるうえ、多額の資金を国がつぎ込むのですが、それ以外の通勤列車方面の投資には、資金を回さず見向きもされないという状況で身を切って改革を行っておりました。
しかし、地方の不採算ローカル線の建設(分割民営化前後から、各地で廃線が相次いでおりました)によって、さらに赤字は雪だるま式に膨らむという事態にも見舞われており、その都度料金の値上げと路線の廃線を行って、しのいできました。

実は、この話は「鉄タビ(臨時便)」の「名列車列伝特集」とも関係してくるのですが、特急列車の料金が値上げされただけでなく、減量ダイヤ(昭和55年以降)が断行されるのは、まさに、鈴木善幸首相の2年近くと、中曽根康弘首相の5年近くの時代に集中しております。

イメージ 3
例えば、東京対東北・北海道連絡の場合、昭和57年6月に「東北新幹線」が開通するまでの昼行特急は、東京対仙台間特急が上下28本14往復、東京対青森間特急が14本7往復、東京対盛岡間特急が8本4往復、夜行寝台特急でも東京対青森間特急が、電車8本4往復、客車10本5往復、東京対秋田間特急が2本1往復、総合計70本35往復が活躍していた記録があり、それが新幹線の開通以後、東京対盛岡間を含めて上下60本30往復に、その後ろに盛岡対青森間連絡特急などが最大で上下22本11往復と変わるなど変化もあって、在来線から新幹線への需要比率の変動が進み、モータリゼーションの加速も相まって、利用者の減少に歯止めがかからなくなってきたわけです。
そして、日本国有鉄道経営再建促進特別措置法が昭和55年に衆参両院で可決成立すると、人員の削減や地方の新規路線の建設凍結、輸送密度による路線の区分(幹線地方交通線特定地方交通線)とそれに基づく措置(特定地方交通線の国鉄からの分離・バス転換、地方交通線への割増運賃の導入)といった施策を国家として責任を取って行うという話になっていったわけです。

その現場は一体どういうことになっていたのかといいますと、その話は、次回「08-7」でお送りいたします。次回をお楽しみにしておいてくださいね。それでは。