大安寺へ行こう! 04

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」から「大安寺へ行こう!」の第4回です。

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私と、「しまかぜ」氏の二人ですが、大安寺に向かって歩いておりました。実は、大安寺のお話につきましては、少し長いお話になります。かつて、元正天皇が和銅3年に平城京遷都を決断してから、6年後の霊亀2(716)年に飛鳥の大官大寺から、移転してきたとされているのがこの寺院ですが、移転した年数が定かではなく、寺院自体の創建年号も『日本書紀』『続日本紀』といった歴史書からは舒明天皇11(639)年に、聖徳太子(622年死去)が創建した熊凝精舎を母体とする寺院「百済大寺」が起源とされております。
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しかし、現在資料に関しての記述と、同じ名称を名乗る寺院で得られた結果がかい離しており、この場所が「百済大寺」であるという証拠がないということから、移転した可能性があるとも示唆されております。
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現在の場所に移転する前に、3回名称を変更しているのですが、そのうち1回目の変更で「高市大寺」という名称となります。これが「壬申の乱(672年{元号表記が抜けている時期})」以降に天皇として即位した天武天皇6年のことです。
その後、藤原京の時期となる文武天皇期に「大官大寺」に名称が変更されていて、その時代に飛鳥地方に、根を下ろして行きます。
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実際に、大官大寺の跡が飛鳥地方に残っていて、幕末から発掘調査が開始され、寺院の北側に香久山、南に飛鳥宮が立地しており、一等地に寺院建立されたことを示しておりましたが、昭和47年から10年間にわたる奈良考古学研究所の本格的な発掘調査では、幕末の発掘調査で、一塔一金堂式であったことが確認されたと同時に、高市大寺とは別に「大官大寺」があったと言う説(昭和40年に歴史学者の田村吉永が唱えた説)が、立証される結果となりました。
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現在の場所に至ったのは、先ほども記したのですが、霊亀2年のこととされており、その前年の和銅4年に大官大寺跡の大官大寺が、火災に遭っていることも発掘調査から明らかになってきました。
では、どうして、この「大官大寺」がこの場所に移されたのかといえば、実際に、佛教の論点の研究を行う、研究機関の役割を果たしたと考えるのが妥当で、聖徳太子は『17条憲法』で「仏法僧を敬う」という言葉を残していることからも、佛教が国是であったことから、「鎮護国家」の一環として建立されたということも考えられます。
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ということで、ここからは伽藍に入っていくのですが、もうそろそろ、時間が無くなってきました。ということで、次回は伽藍内に入ってからのお話をしていきます。
次回をお楽しみに。