大安寺へ行こう! 05

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」からです。

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1月4日以来、20日ぶりの記事となったのですが、その間に、現実の仕事で大変なことになっており、なかなか記事が書けませんでしたので、今回この場を借りて2本目にこの記事を持ってきました。

その前に、少しおさらいをしておきます。実際にわたくしと、「しまかぜ」氏との二人で奈良を訪れたのですが、目的地大安寺にたどり着くまでに、現在の職場に就職したという話などをして、目的地大安寺にたどり着くまでを「01」から「04」にまとめておりました。

大安寺にたどり着いてからが今回の記事です。
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さて、現在の大安寺の伽藍規模は、最盛期に比べるとかなり縮小されたといわれております。現在の伽藍から北に百数十メートルほど戻った場所に、石碑がありますが、そこまでが、大安寺の敷地だったと記録に残っているのです。

では、大安寺がなぜ、規模を縮小させてしまったのか…。考えられることは、二つあります。
一つは、延暦年間の平安京遷都による、政治の中心地の移動です。これは、奈良平城京では、寺社勢力の影響力が大きいために、桓武天皇が遷都させようとしたという狙いが見え隠れしておりました。

「大安寺資財帳」による天平19年の「在籍僧侶総数」の記録には、887名の僧侶が在籍していたことが記されております。これは、後に完成する東大寺、そして、藤原氏の氏寺となる興福寺よりも、規模が大きいことを物語っていることにほかなりません。
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鎮護国家として国分寺の総本山となっていく東大寺が、建立される前までは、大安寺が、鎮護国家の目的のために、重要な役割を果たしていたということが考えられるわけであり、そのうえで、奈良に都があった時点で、その政治的な役割も大きかった可能性は否定できません。

二つ目は意外な面がありますが、一つ目の理由と重なっている部分があります。それは国家との関係が深かったこと、これが影響していると考えられるのです。
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今では、国家の平安を願っているのは、個人が思うことですが、この当時は国家の製作として、国家の平安を願うというが主流だった時代。
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寺院としても、その命令を受けた寺院だったからこそ、国家の保護を外れてしまったことによっての影響も大きかったといえるのかもしれません。
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さて、そのあと、大安寺は平安時代の中頃、寛仁元(1017)年の火災で、東塔のみを残して焼失する事態を経験し、そののち、慶長年間の大和大地震を経て、現在の伽藍配置となったとされております。
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そんな伽藍内を歩いていると、「稚児大師」の名が…。これは、裏に書かれているのですが、この大師様のことが少し気になります。ウィキペディアで調べてみると、全国に点在する石造のようです。
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その隣には、戦死者を祭る塚が残されておりました。昨年は戦後70年だったこともあり、意味深く撮影したがぞうとなりました。セミが鳴いている8月に来たら、多くの感情があふれ出た可能性はあります。

そのあと、一角にある宝物館に足を運びました。
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と、ここで、時間が来てしまいました。本日はここまでとなります。

次回は、宝物館の中をお話します。そして、本日3本目に予定しておりました「名列車列伝特集」は明日に順延いたします。それでは、皆様おやすみなさい。