我乃旧姓者「真田」也 01

本日の話題の2本目は、「自伝」から、この小説を書くことになりました。

以前、「本日の様子」などで、お伝えしていたのですが、私の父親から聞いた話なので、少し不明な点がありますことを、ご了承ください。


今から話すことは、私のルーツに 関わることで、私も、半信半疑な部分が多い。
故、書き手の知識不足で恐れ入るが、この話に耳を傾けてもらえれば、幸いである。
私は、小寺の姓を頂いて三十有余年となる。祖先までの分かっている範囲なら、百年の長い月日になると言うことになるだろうか…。はっきりしていないので、何年なのか、分からない。
しかし、私の父親は、小寺姓の根元を求めて、関西に出たと言う。その父から、信じられない言葉を聞いて、驚きを感じ、混乱している状態である。父方の祖父が生前(父親も、いつ話を聞いたのか、分かっていない)、「昔、真田の姓を名乗ったことがある」と聞いていた。
ただ、「なぜ真田の姓を名乗ったのか」と言う疑問が生じ、父に、事実か否か訪ねると、父方の親戚には「真田姓」を名乗る人物がいる事実を知ることになった。父も私も、知識不足なので、なぜ「真田姓」を名乗っているのかの理由には、お答えできない。ちなみに、真田は、地名であり、武将の姓として有名である。中でも、武将真田昌幸、真田信之、真田信繁と言った名将を輩出したことで、世間一般に知れ渡っている。
しかし、真田家がどうして、秋田県の…と言うと、現代の人間の感覚で、信之や、信繁が生きていた時代で考えると、羽後国にいたのか。そもそも、その人物が、真田を名乗ったのか、これらの疑問が生じてしまう。
では、羽後国は江戸幕府開府前後に、どう言う状況にあったのか、そこに疑問を解く「鍵」が隠されていると考えられる。

かつて、真田家は名将を輩出したことに触れたが、ルーツをたどっていくと、清和源氏に繋がると言う。この時代の…と言うと、事実と異なる神話の血筋として、自称していたことも考えられる。
では、清和源氏をルーツに持つ一族は他にいるのかと言うと、代表的な四家を挙げるなら、甲斐武田、上野新田、下野足利、常陸佐竹があり、佐竹氏は江戸幕府開府の翌年、羽後国国府の久保田(現在の秋田)、分家が羽後国の小京都、角館に奉禄を与えられている。
奉禄を江戸幕府から与えられたのは、聞こえが良い、しかし、実態は「関東域内からの外様の締め出し」で、たちが悪いことに、関ヶ原で西軍の大将、石田三成と交友があったことも、関係していたから…とされている。つまり、「左遷」が正しく、混乱期に久保田に入ったことが知られている。
早速、話が脱線しているが、江戸幕府開府前後の大きな動きなので、少しお付き合い願いたい。
真田家の場合は、両極に立つと言う戦略を取っている。これは、東西の軍勢のどちらに勝機があったとしても、生き延びると言う真田昌幸の戦略が生き、その証拠に長子信之は、長野松代真田家の大名となって、明治維新後も、存続している。
しかしながら、このことだけに、着目しても、羽後国に真田家がいる疑問の払拭とはならない。

…続く。

ということで、これをきっかけにして連載を開始します。月刊という形で連載していきます。ということで、本日はここまでです。