我乃旧姓者「真田」也 02

さて、本日の話題の4本目は「自伝」からですが、お約束通り連載2回目の原稿を持ってきました。

先ほどの話は、兄の真田信之のことで、弟についての記述は、真逆の話になる。
慶長五年秋の「関ヶ原の合戦」で、東西両極に別れた兄信之と、弟信繁の運命は、その戦いを期に、大きく変わる。弟信繁は、高野山九度山に幽閉されている。
信繁は、江戸幕府開府以後初の戦乱、「大阪の陣」で旧豊臣軍勢を率いているが、慶長二十年に戦死している。
信之の家系は、明治維新後も続くのだが、信繁の家系については、真田の氏を名乗っていないことから、埋もれている可能性が高いと考えられる。
では、信繁の家系はどこに行ったのか、答えを先に述べると、東北である。しかも、二人いるので、どちらが先なのかまで、整理しておく必要がある。
一人は、佐竹氏が治めた秋田のすぐとなりにある小さな藩に、嫁がれた姫。もう一人は、東北随一の名君伊達政宗を支えた重臣に嫁いだ姫に分かれる。
どちらも、姫君の弟が、姫君が嫁いだ大名の家臣、または重臣の元に仕えたと、書かれている。
 
まずは、陸前白石に嫁いだ片倉小十郎重綱に嫁いだ「お梅の方」についてお話していく。
片倉氏は、智将として、伊達家当主の政宗を支えた重臣中の重臣と言われた人物、「政宗の懐刀」として活躍したことは有名であるが、困ったことに、片倉氏の「小十郎」は二人いるから、どちらに嫁いだのか、はっきりしているところを述べると、慶長二十年夏の「大阪夏の陣」終結直前の夜、片倉小十郎重綱の元に、送り届けた。
この「お梅」の方の末弟に当たるのが、当時は、真田大八と名乗っていた片倉(真田)守信と言う人物で、後の奥州仙台真田氏の祖となり、明治維新後も続く家系となっている。
果たして、奥州仙台真田氏が守信の代で、真田氏を名乗ることができたのか…。
伊達氏は、天下を狙っていたことに関係している。しかしながら、伊達政宗は慶長遣欧使節団に積極的に関わっていたことがあったのか、謀反の噂が絶えなかったと言われている。ちなみに、この使節団絡みの謀反疑惑は、「大阪の陣」の少し前のこととも言われ、真田信繁にも、このことが伝わっていた可能性は、否定できない。
さらに、伊達氏と真田氏は、同じ源氏の系譜を名乗っている上に、伊達氏とは、太閤秀吉こと豊臣秀吉の時代に関係を深めたとも、考えられる。
まさに、片倉小十郎重綱がこの縁談を、しかも、「大阪の陣」のどさくさに紛れて結ぶことは、少し奇異な感覚を受ける。
または、信繁の遺言として、嫁いだとも考えられる。曰わく、「お梅と、末の息子大八の行く末も頼みたい」と、そのため、重綱も熟慮を重ね、主君の政宗にも、相談して決断したと考えても、不思議ではない。
ただ、無条件で受け入れたのか、それは別問題となってしまう。おそらく、重綱が条件として、提示したのが二点あるとすると、一点は、「真田」の氏を名乗らないことで、二点は、真田家紋の六文銭の使用しないことと考えられる。事実、仙台真田氏の家紋に、六文銭が使用された形跡はない。
その理由は多くなるが、大きな理由は二つある。一つは、幕府の監視を逃れることで、絶対条件であり、真田本家とは別の筋であると言うことを主張したことで、真田本家及び、片倉氏、主君の伊達氏に類が、及ばない様、配慮したことは考えられる。
二点目は、真田家紋を付けなかったのは、真田信繁が「大阪の陣」で、「日の本一の兵」と言われた。まさに、幕府が開府直後の不安定な時期に、真田家紋を掲げてしまうと、反幕府派がそれを旗印として、反旗を翻すことも…、この時代では、謀反を起こすことに繋がってしまう。これは、守信本人は望んでいたとは考えにくい。
他に、処世術として、信繁は「大阪の陣」後、自分の子々孫々、江戸幕府の時代を見据えていたと考えていたのでは無かろうか…、それなら、二人の頭の中に、真田家紋を、自らの家の家紋としないと言う共通した認識はあったと考えられる。
とは言っても、真田家の名称を許可した江戸幕府もどういう狙いがあったのだろうか、これは、江戸幕府の体制と関わりがある。

…続く

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