本当に寛容な社会はどこへ? 下

本日の話題の2本目は、「今の社会はどこへ向かう」より、「本当に寛容な社会はどこへ?」の下編をお話します。

今回下編では、なぜ炎上したのかの根本に迫ります。それがどういうことなのかを、考えてみるとそれは、日本の社会が「貧困の人たちは当たり前のことができなくても仕方ない、と思う社会」という状態にあると、中編でご紹介した山野さんは指摘しております。
実は、Twitter上でも、

「親が貧困だとなんでお前は進学するんだ、と。それはおかしいですよね。子どもと親は切り離して考えてあげなきゃいけない。どんな親に生まれるなんて誰も選べない。子どもは所得をつくれないし、両親に依存をしなければならない」

という声がある一方で、

「経済的に大変な家に生まれていたって、友達との付き合いや趣味を楽しむこともある。美味しいご飯だって食べたいし、ディズニーランドに行くことだってあるでしょう。それは全然普通のことですよね。貧困家庭の人たちは、普通の暮らしをしてはいけないんでしょうか」

という声もあります。

これは、前者が、豊かな暮らしをしている普通の人から見た感覚といえ、後者は貧困にあえぐ被害者の心に寄り添うという感覚ととらえることができると見ますが、こうした部分は「自己責任論」と同時について回ると、山野さんは分析し、次のように指摘します。

「貧困は自己責任だから、真面目にやっていないとか、怠けてばっかりいるとという風潮になっている。これはもはや、弱いものいじめですよね。なんらかの理由で努力をできない人たちが貧困になっている。だから、叩くという論理です」

次のことを考えてしまうと、「まじめ」と「なまける」の2択化に人を分類し、「できる人=まじめ」という風潮が、この議論を巻き起こさせているということにつながると、言った事態が考えられます。
また、

「それに対し、子どもたちは反論できない。そもそも声をあげられないわけで、反論できるわけはないですよね。そういうところを突いて、追い込められればいいと思っているのではないでしょうか」

とも指摘します。確かに、子供はどうして貧困になったのかという知識を得られないというイメージが先行し、『貧困なら落ちても仕方がない、落ちるなら助ける必要はない』というステレオタイプ的な、考えを持った人間がけしかけている。それは、「弱者はいらない!」という思想に通じており、それが極端化してしまうと、「弱者切り捨て=正義」という誤解を生じさせることにもつながります。
しかし、それが思わぬ悲劇を生み、『「ヒトラー」思想が降りてきたと』と主張した相模原市の障がい者施設主劇惨殺事件の思想と重なっているとわたくしは考えてしまいます。

その議論に、加わった片山さつき代議士の責任も問われかねません。なぜなら、今回の話は、そもそも政治家がするべきものではないと、山野さんは主張します。
理由は、

「政治家がすべきなのは、いまの子どもをめぐる制度を変えるためにエネルギーを注ぎ、社会合意を形成することのはず。これでは、女子高生のようにようやく勇気を出して声をあげた若者たちが、また、声を出しにくくなってしまう。ネット上だけではなく、学校などでいじめを生み出すきっかけを作ってしまう可能性すらあります」

ということです。当然のことです。こういった議論があるなら、貧困を解消させる方向へかじを取るように、力を入れることが大切だといえます。ただ、政治家も人間ということなのでしょうか…。

では、今回のことで何が問題となったのか、それを考えていくと、この答えは見えてきます。
今から70年前の日本は、終戦直後の混乱期の中で、GHQと日本政府の協力のもと、豊かな暮らしを送れるような社会の構成に向けて努力してきました。それが、『日本国憲法』というものです。その条文の中には、第14条に「児童労働の禁止」の条文が入れられており、「子供は教育の権利を受ける義務がある」、また、その親は「子供に教育を受けさせる義務がある」という規定があります。
山野さんは、「どういう家に生まれたかによって、その子の将来が変わり、学力などにも差が出てしまう社会」を、変えなければならないと強調しております。その理由を次のように説明しております。

「子どもを平等にするということは、彼らが将来、納税者になって社会を豊かにしてくれるということを意味しています」

つまり、昭和30年代に掲げた「一億総中流」時代とは、まさに、このことを指していたのです。それが、平成12年以降の小泉純一郎内閣で、大幅に壊されてしまったということになるのです。

「貧困家庭の子どもたちがそのまま大人になると、税金や年金代が払えなくなったり、医療費や生活保護費がかさんだりする可能性もある。つまり、社会的なコストをもっと生み出してしまうことになります。社会全体にとっても、子どもの貧困を放置することはお得ではない」

実際に、大阪市では、生活保護費の請求が他府県政令指定都市よりも高いというデータがあります。この状況の根本の一つに、この「子供の貧困」がかかわっていることはあり得るかもしれません。また、「子供の虐待」が関西で多いという印象を私は感じるのですが、それにも関わってくるかもしれません。

それは、日本の教育予算にかける比率にも表れております、実は、日本の子育て支援の予算比率は、平成21年で1パーセント。教育予算の比率は、平成24年度で3.5パーセントと、先進国最悪の比率であることも、要因の一つといわれております。

考えられるところでは、選挙票の獲得ができにくいという、政治的な背景があり、英国と同じように、「低所得者の労働者層」が形成され、それが、英国のEU離脱を後押ししたという背景があります。

最後に、山野さんは、

「貧困とは、努力が報われないこと。生まれたときから、機会が平等でないこと。どんな家に生まれても、努力するための基礎がある、スタート地点には平等に立てる社会を目指すために、子どもの平等を社会全体で考えること。いまの日本には、その視点が欠けていると思うのです」

と述べておりますが、それには、社会の流れを変えていく必要があります。これからの「人に愛される社会」を形成するという流れを作るうえでは、政治に期待するのではなく、自分たちが自ら行動することが求められるということになってしまいます。

そこで、注目するのは私が、マレーシアに行った時のことです。実は、かれこれ20年ほど前ですが、私は、この地域を訪れたときに、イスラム教の思想の話を聞いたことがあります。
イスラム教には、「ムスリム(イスラム教徒)は、困窮している人がいたら助けを差し伸べること」という教えがあります。実は、「イスラム教」を国教としている国家では、その教えが浸透しているといわれております。
ただ、グローバル化の中で、どうなっているのかはわかりませんが、その思想は生きていると考えられております。

実際に言うと、日本にも類似した点はあると考えられます。しかしながら、それは消えようとしているという事実はあります。

本当に寛容な社会はどこへ消えたのでしょうか…。

貴方の「」に問いかけてみてはいかがでしょうか。

次回の記事は、「今年の日本の夏はおかしい!」をテーマに、お話をしていきます。それでは。