真田丸を見に行こう! 16

本日の話題の2本目は、「鉄タビ(臨時便)」から「真田丸を見に行こう」の最終回です。

さて、徳川家康がなくなるのは、「大坂夏の陣」の翌年となる、元和元(1616)年ですが、では、それぞれの武将は、その後の町はどうなったのかです。
イメージ 1
(上の画像は、8600系8608編成先頭奈良駅行き急行
実は、浪人となった元武将は、多くが戦死しており、戦国の世を終わらせるには、そのあと処理を行うことが重要であると認識していた徳川幕府は、徳川幕閣の一人に、大坂の復興を行わせることになります。
実はこれが、「大坂の陣」のあと処理であることは明白ですが、その後、大坂の町は、武将をなるべく置かない天領(幕府直轄地)として据え置き、大坂城には地方長官という形になる城代を設置して、商業の街に変えるという政策を打ち出していきます。
イメージ 2
イメージ 3
(上の画像は、8810系8912編成と2410系2425編成青山町駅行き急行
考えてみると、「大阪=あきんどの町」というイメージがつくられたのは、江戸中期以降、言えば元禄年間(1680年代から1690年代にかけて)以降であるため、この措置が、ある意味でいえば、街づくりを決定させた大きな理由ということになります。
イメージ 4
イメージ 5
(上の画像は、21000系大阪難波駅行き特急(甲特急)
ただ、徳川幕府は最初から大坂を、「あきんどの町」にしたいと考えていたわけではなく、全て江戸に集めようとしていたといわれているのです。現在の東京一極集中問題が表面化し始めたのは、享保年間以降つまり1700年代に入ってからで、その後の日本の首都が東京に移ったこともあり、近畿圏は明治期にいったん活気を失った後、大正の「大大阪時代」を経て、今に至るというわけです。
イメージ 6(上の画像は、2800系2807編成榛原駅行き区間準急
ただ、多くの戦火に見舞われた大阪が、如何にして復興したのか、その原点を探ると、「大坂の陣」からの復興が一つのカギだったと考えられます。なぜなら、多くの商人たちが、焼け残った大阪の街に商家を立てて、市場を作るという作業をした…、これはのちに、大阪証券取引所に活かされて現在に至りますし、そのほかにも、大阪市内の区画も、江戸時代からの区画が残されております。
そこから考えていくと、今の大阪の大部分は、江戸の名残が残る場所というべきかもしれません。
イメージ 7
上の画像は、8400系8354編成大阪難波駅行き急行
ということで、いかがでしたでしょうか。
大阪市内の場所に、戦国時代の遺構が残っていたということを考えると、大阪の栄えていた時代に思いをはせることで、何故そこに、出城がなければならなかったのか、それを考えてみるのも面白いかもしれませんね。
イメージ 8
次回は、南海電鉄「めでたい電車」を見に行こうです。ということで、次回をお楽しみに。
(〆は30000系賢島駅行き特急(乙特急)

      NEXT OF The Photo of「Train OF Nankai"Mede-Tai_fish"」>>>