名列車列伝特集 10-5「首都圏と甲信越を結んだスプリンターたち」

(N)本日の話題の2本目は、「名列車列伝特集」から「とき」編をお届けします。さて、本日は、特急「あずさ」と「あさま」の登場までのお話の続きですが、今回は山岳区間であっても、比較的に勾配が緩かったのですが、今回は最強の勾配区間が立ちはだかる信越本線が舞台です。そこで、今回はゲストをお迎えまして、その当時の苦労話をお聞きしていきます。
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(Kt1641F)それって、どういうことですか?
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(Hs1208F)おそらく、自力では乗り越えられないという話ですか?
(N)その通りで、今回ゲストで来て下さるお方が、EF63型電気機関車ですが、この型が「あさま」の運行に関してのカギを握っております。ということで。
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(Hs1208F)本日の「名列車列伝特集」は、「首都圏と甲信越を結んだスプリンターたち」の第5回をお届けします。ということで、皆様よろしくお願いします。
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(クモハ157型)さて、昭和37年6月ダイヤ改正で161系電車を使用した「とき」が誕生したのですが、この時期の信越本線は、電化されていたとしても、一区間だけ電気機関車を交換して、乗り越えなければならない壁がありました。それが、碓氷峠と呼ばれる群馬県と長野県にまたがる峠道でした。そもそも、この峠は昔から信州と上州を結ぶ中山道の要所として、機能しておりました。
(N)そういえば、『ブラタモリ』でもそういったお話を聞いたことがあります。しかし、信越本線の峠道をあえて通したのには、わけがあります。その点を私から説明させていただきます。実は、中山道は東海道に比べて、比較的安全な路として知られており、かつては和宮降嫁のルートとしても知られておりました。警備的な面でのコスト削減という点からして、ベストルートだったということになります。また、長野県北部で、県都でもある長野市は、善光寺参りでは最短で結ぶルートとなることから、鉄道を建設しようという機運が高まっており、その関係からか、信越本線の建設は官営鉄道による高崎駅から、直江津駅までの間を建設、直江津駅から新潟駅の区間を、北陸鉄道が建設していくのですが、その間に立ちはだかったのが、碓氷峠だったわけです。
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(EF63型第1次型)皆様お邪魔します。
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(Kt1641F)お待ちしておりました。EF63型さんですね。初めまして、近鉄に所属します1620系1641編成と申します。
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(Hs1208F)阪神電鉄所属の1000系1208編成と申します。
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(クハ189型)おやおや、これは懐かしい。実は、EF63型が3種類ありますが、1次車両と2次車両の違いは、テールライトの形状で区別ができます。そして、第3次車両とその他の車両の区別は、1と2次車両の区別は、気動車との協調運転の需要が、無くなったことから、ジャンパー器具の数を2つ削ったところにあります。
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(EF63型第1次型)まあ、私は当時から、気動車急行との協調運転を行っておりました。昭和39年に長野方面の電化が完成してからは、165系電車のエスコート役を頼まれることになりました。しかし、彼らは、碓氷峠を越えることができない問題を抱えておりました。それが、モーター出力が急勾配路線に適していなかったことにあります。実は「あさま」でも問題になる話で、この区間を克服するには、新しい車両を開発して、急勾配を克服させる車両が必要となっておりました。しかし、それが実るまで、私たちの役目は終わりませんでした。
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(クモハ165型)それがですが、165系電車をベースにした車両が、昭和45年以降に開発されることになるのですが、技術的に克服できる車両を開発できなかったのです。もともとの勾配区間が急すぎたことが大きな背景にあり、結果的に、勾配区間をルートを変えて、迂回させて緩和するしか、選択肢がなかったのです。
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(クハ189型)それが、北陸新幹線のルートそのものになったのですが、それでも勾配は39‰となっておりますが、迂回前は、下り線で66.7‰、上り線で67‰だったのです。
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(Kt1641F)そういえば、私と同じく標準軌を使用している京阪電車さんに伺ってみたところ、同じく66.7‰を上り下りしていた路線があったこともわかっていて、面白い話を聞いたのですが、実際に本線の車両を入れようとしても、京津線の蹴上の坂をのぼり切れるのかどうか、まったくわからないと話してくださいました。確か、京津線は、京都市営地下鉄東西線に一部路線が重なるという理由から、三条駅と御陵駅までの区間を廃止したという話になっていたようです。
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(クモハ165型)そうでも、私は越えられないですね(^^;。実は、この路線は明治年間から「アブト式」と呼ばれる歯車をかみ合わせて登るという方式が、当初から採用されたもので、その「アブト式」を廃止し、「粘着式」に変更したのが、昭和38年のことです。
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(クハ189型)それがあったことから、信越本線の特急列車の素地が出来上がってきました。そんな中で、翌年の昭和39年に東京五輪となるのですが、実は、「とき」の走る信越本線の区間では、思わぬ事態が降りかかってきたのです。
(N)東京五輪の4か月前、新潟県をマグニチュード7.5の地震が襲いました。これが世に言う「新潟地震」です。実は、この地震は、交通インフラにも大きな影響を与えております。これに関して「とき」の運休が発生しているのは事実です。ちなみに、東京五輪はその復興のためともいわれております。それでも、その後の復興で、新潟市との連絡は密となっていき、「とき」は飛躍を遂げようとしておりました。ということで、次回は、「とき」の飛躍と「あさま」、「あずさ」の登場について、お話します。それでは。