名列車列伝特集 10-9「首都圏と甲信越を結んだスプリンターたち」

(N)さて、本日の話題の2本目は、「名列車列伝特集」から「とき」編をお届けしますが、今回は、「とき」の昭和40年代に入ってからのお話です。
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(Kt1641F)私たちも、気になるところですが、どうなっているところですか…。
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(Hs1208F)それより、どうして「とき」が発展していったのかどうなるのでしょうか…? ということで、「首都圏と甲信越を結んだスプリンターたち」の第9回をお届けします。ということで、クモハ157型さん他皆様、よろしくお願いいたします。
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(クモハ157型)さて、昭和41年のダイヤ改正で、「とき」は往復数を3往復に増やした後、スピードアップを行って、所要時間の短縮を図りました。その影響でですが、東京駅への乗り入れが実現します。当時の停車駅は、上野駅を出発した列車の内、共通停車駅の高崎駅、長岡駅、新津駅に加えて、大宮駅に停車するのが、早朝上野駅を出るの下り「1号」と、夕方に上野駅着となる上り「2号」、水上駅に停車する列車が、上野駅をお昼前後と、夕方に出発する下り「2,3号」、お昼と夕方に上野駅に到着する上り「1,2号」といった具合に、停車駅が千鳥型にパターン化され、昭和37年登場時とは一線を画した停車駅の配置になりました。
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(クモハ165型)そして、上越線急行については、「越路」が「佐渡」ブランドに吸収されるのが、昭和43年10月ダイヤ改正からとなり、「とき」が3対「佐渡」8の割合で、急行列車の黄金時代を迎えることになります。その翌年には、さすがに8往復は、多すぎるとして、1往復削られるのですが…。時を同じくして「とき」は不定期便を2往復増発することで、波動輸送に対応することになります。
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(クハ189型)それで、基本的に特急「とき」は、翌44年改正時に、特急「とき」は2往復が定期化することになります。その後、特急「いなほ」が誕生します。それが、「いなほ」は急行「鳥海」を列車のベースにしておりました。
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(Kt1641F)ということは、特急「とき」の増発便として、上野駅と新津駅を結ぶということですか?
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(クハ189型)そういうことになります。実際に、特急「とき」と「いなほ」は兄弟の間柄となりますが、この時は、日本海縦断線の電化が完成していないために、「いなほ」は気動車として、82系気動車が担当することになりました。
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(クモハ165型)実は、急行「鳥海」ですが、2往復となっておりました。どうしてこうなったのかといいますと、昼行列車の需要を特急「いなほ」だけでは補えないことから、急行「鳥海」を存続させることとしたのです。つまり、夜行列車は「鳥海」がのちに寝台特急「出羽」となります。
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(クハ189型)昭和45年になると、特急「とき」と急行「佐渡」の往復数が6対6に代わり特急列車が優位となる時代へと変わろうとしておりました。
(N)それが、特急「とき」は、日本海側と首都圏を結ぶ特急として活躍していきます。ところが、昭和47年になると、ある政治家の登場によって、「とき」は時代にほんろうされる事となるのです。
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(クハ189型)しかし、それが「佐渡」の運命も変え、さらに、「いなほ」の運命も変え、「はくたか」の運命も変えていきます。その後、昭和47年に至ると、2度の改正で4往復増加の上、自由席を増結してついにL特急として運転を開始します。総合計は10往復、そして最速達列車の所要時間は、3時間51分となりました。
(N)それで、昭和47年以降どうなるかは、別のお話になります。ということで、それでは。