近鉄初詣タビは、伊勢へ「伊勢賑わい道中旅」 16

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「近鉄初詣タビ」の第16回をお届けします。

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さて、私と父は、伊勢市駅から松阪市の松阪駅に向かうのですが、この後で、土産物を購入するため、1往復することになりました。
只今やってきたのが、1230系に属しておりながらボルスタレス台車を履いております1259系1265編成の伊勢中川駅行き普通です。実は、この車両は共通デザイン車両であることから、狭軌路線となる南大阪線以外の区間では走行可能という性能を持ち合わせております。ちなみに、1200番が日立製作所の製造した制御機器を使用しており、1400番が三菱電機の製造した制御機器を使用している車両で区別されております。
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実は、五十鈴川駅から伊勢市駅まで乗ってきた車両は、1430系でしたので、三菱電機製の床下機器を積んだ車両に乗っていたことなりますが、注意深く見ないとわからないですよね(^^;。
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まあ、そんな話は置いておいて、解説に戻りましょう。今回のテーマは、一気に時代が下って江戸時代に勃興した「国学」と松阪の関わりを紐解きます。
皆様は、こんな疑問を持っているのではないでしょうか、「『国学』というのは、どうして三重県の松阪市で発展したのだろうか…?」と、実は、三重県松阪市は、旧国名では、伊勢国ですが、支配していた藩が、紀州徳川家という徳川御三家では、尾張、水戸に続く重要な藩として位置づけられておりました。
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ここまでさらっと言ってしまったのですが、こんな疑問を口にした人もいると思います。
「藩って、1つの国しか治められないのでは?」
今の間隔で考えると、この意見はもっともですが、実は、紀州1国だけを治めていたのではなく、周りに他藩の飛び地、天領など複雑に入り組んだ区割りによって、藩の石高が決まっていたというが、実態です。
紀州藩を含めた親藩以外にも、譜代大名、外様大名でも同様に、様々な飛び地が所々にあるという不思議な行政区画が割り当てられていたのが江戸時代だったわけです。では、松阪市を徳川家が収めた理由はいったいどこにあったのかといいますと、これも、
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伊勢神宮が大きくかかわってきます。それについては、別の項目で取り上げますので、ここでは、扱うの後にして…話を続けましょう。では、徳川幕府開府までさかのぼって行くと、徳川家の2代将軍秀忠(三男で、長男は「信康事件」で自決に追い込まれた信康)から見て7番下の弟である頼房(10男)が、紀州に赴任することになったわけです。実は、紀州の記録書とされる『南紀徳川史』によると、御三家の中では最も少ない21万石であるものの、伊勢及び、京都を睨む上で重要な位置であることで、親藩を配置したというわけです。
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ここで、大阪府に住んでいるお方であっても、それ以外にお住まいの方にも、実は疑問がわいてくる人は多いのではないでしょうか、
「それだとしたら、大坂に大名家、親藩を置いておいたらよかったのでは?」
という意見もありますが、それを考えるには、徳川幕府の考え方が大きくかかわっております。
実は、慶長20(1615)年ですが、徳川幕府と豊臣秀吉含めた反徳川勢力との間で、終結した「大坂の陣」で、大名家が治めない直轄地として、治められることになりますが、それは武士の町としての機能を失い、町人の町として生かすことになったのです。
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さらに、松阪市が江戸時代では、紀州藩がかかわっていたということを…考えていくと、実際に「国学」の体系化を行う、政治および地域的な土壌が形成されていたというわけです。
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松阪市までの所要時間は、14~15分ですが、1分遅いのは、実はわけがあります。この名古屋駅行き急行には、通勤通学時間帯に、すぐ隣の宮町駅に停車する便があるわけで、その便に乗っていったのです。
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そして、乗車したのは9000系の第8編成となる9008編成ですが、この車両は奈良線で活躍していた車両で、名古屋線に転属時に、ワンマン運転を行うため、一部座席撤去と、
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バスの出口に設けられている運賃箱が増設されています。
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さて、スタフも見てみると、「各停」と書かれておりますね。そこを拡大してみると、「スタフ差し替え」という表示があります。
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そんなことをよそに、この9000系9008編成を先頭とした名古屋駅行き急行(宮町停車便)は、松阪市の松阪駅を目指して山田線を快走していきます。

ということで、次回の解説も「『国学』の体系化」についてのお話の続きとなります。それでは、次回をお楽しみに。