近鉄初詣タビは、伊勢へ「伊勢賑わい道中旅」 17

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「近鉄初詣タビ」の第17回です。

イメージ 1
さて、伊勢神宮のおひざ元、伊勢市駅から松阪市の松阪駅に向かていくのですが、「松阪が、なぜ『国学』の体系化にかかわっているのか」という話です。
この前までのおさらいですが、伊勢国の中で、飛び地として、紀州藩が治めた松阪、実は、伊勢神宮を押さえ、さらには京の都、商都大坂にも近い立地条件から、重要性の高い地域であったことをお話しました。

では、「国学」の体系化を、本居宣長が目指したのはどういう理由からか、それを紐解くうえで、「国学」の成り立ちから見ていきましょう。
もともと、「国学」の始まりは、古くは元禄期(西暦でいうと、1688年から1704年までを指します)の契沖が始祖とされております。実は、私の住む和泉市にも、契沖が滞在したという石碑も残っています(和泉中央駅から車で15分かかる長閑な場所です)。その話は別の話としましょう。
イメージ 2
その成り立ちですが、儒教古典仏典研究を中心とする学問傾向を批判することに主眼を置いているため、古来日本に根付いてきた学問を研究し、そこからの文化思想精神世界(古道)を明らかにすることが目的となる学問です。
ただ、『大日本史』(徳川光圀編纂)と大きくかかわるとされており、儒教道徳、仏教道徳などが人間らしい感情を押し殺すことを批判し、人間のありのままの感情の自然な表現を評価することに主眼を置いているからで、「本来の日本に帰ろう」というのが、彼らの考えそのものでした。
その源流は、江戸時代初期の形骸化した中世歌学を批判から始まり、そうした批判は、下河辺長流・契沖の『万葉集』研究に影響を与えていきます。実は、契沖の和泉国に滞在していたのは、この『万葉集』の研究も関係していた可能性があります。
イメージ 3
実質上、「国学」の研究は、「古典文学」の研究から始まっており、その「国学」の盛んだった上方に近い松阪がたまたま、紀州藩の治めていた場所だったということもあって、松阪に「国学」が根付いたというわけです。
その中で、「国学体系化」を推進した本居宣長は生まれます。享保15(1730)年に松阪に生まれたのですが、もともと、木綿問屋の商人として育った彼ですが、そう倍に芽が出なかったのか、母親の勧めにより医師の道を志していきます。
イメージ 4
実は、彼は医学だけでなく、儒学を学びます。儒学の師となる堀景山は、契沖を尊敬していた学者でもあったため、これが宣長に大きな影響を与えます。
京都での医学習得を基に、松阪で宝暦7(1757)年に開業医となった宣長は、開業医だけでなく、「国学」研究にも取り組み始めます。
転機となるのは、賀茂真淵との出会いで、開業医として活躍し始めてから6年後の、宝暦13(1763)年に賀茂真淵が松阪に宿泊していた旅館を、本居宣長が訪ねそこで、真淵の門人となったこともあり、以後は、往復書簡による師弟の関係を維持しながら、『万葉集』『古今和歌集』『源氏物語』、さらには、『源氏物語』などの主題を「もののあわれ」を表現していると評価しております。
イメージ 5
そして、『古事記』の解説本として、ベストセラーとなった『古事記伝』の執筆を開始し、寛政10(1798)年に全44巻を完成させることになった後、享和元(1801)年に数え72歳で没するまで、500名の門人が訪問していくほどの、作家として、国学者として名誉を得ることになります。
イメージ 6
松阪市は、それ以上に、交通の要衝だっただけでなく、思想の変遷を記録できる環境が整っていたという好条件がそろったことが、本居宣長という大人物を生み出したといっても過言ではないということです。
イメージ 7
さて、私たちの乗っている名古屋駅行き急行(宮町臨停)は、快調に飛ばし、松阪駅まで、ノンストップですが、その間に、
イメージ 8
新幹線の廃線型の駅を通過。実はこの駅、漕代駅です。そこで、普通…って、
イメージ 9
1230系1265編成が待っていてくれました。そして、
イメージ 10
松阪駅に到着。時刻は午前8時21分着となります。ということで、次回は、
イメージ 11
松阪市内の新年の様子を見るというお話です。ということで、次回の解説は、松阪市の武家屋敷のお話です。次回をお楽しみに。