「いこーや、なごーや」、リニア館への旅 07

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「いこーや、なごーや」旅の第7回です。

さて、私とS氏を乗せた7列車名古屋駅行き特急(甲特急)ですが…、
イメージ 3実は、ここからの画像が、まったくないため、1月の松阪駅の画像でお楽しみください。

そういうことで、
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名古屋駅行きは、方向を変えて北東側に進路を取り、津市の近鉄津駅に入ります。
ちなみに、津駅は、「しまかぜ」以外の列車が停車する三重県の県都で、実は、「天むす」の発祥の地とも言われております。その発祥のお店とは、「千寿」というお店ですが、実際には、「名古屋名物」という肩書がついており、そちらの方が、皆様にはなじみがありそうなのです。
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その近鉄津駅を出て、愛知県名古屋市の中村区にある近鉄名古屋駅までノンストップの状態で走行します。
伊勢地方北部に入っているのですが、ここは、日本三大商人の伊勢商人があまりにも有名で、「伊勢乞食」という渾名でご存知のお方も多いでしょう。他にも、井上靖氏の著作『おろしあ国酔夢譚』で有名となりました大黒屋光太夫の故郷、白子があります。
現在、白子駅の駅前ロータリーには、当時としては、珍しい洋装姿の光太夫の銅像があります。彼については、井上靖氏の著作が一番詳しいのですが(誇張もあるので注意)、他の作品でも光太夫について触れている作品がありますので、そちらをご紹介いたします。司馬遼太郎氏の著作『菜の花の沖』です。
大黒屋光太夫と同じく日露の歴史に関わった人物、高田屋嘉兵衛の生涯を描いた作品です。この作品は、メインは嘉兵衛の活躍と、受難を描いていますが、そのなかで、参考文献として、彼の話が出ております。
実は、大黒屋光太夫については、第5巻の「ロシア事情」で触れていて、資料としては『北槎聞略』が詳しいと司馬遼太郎氏は紹介しております。実は、アダム・ラクスマンの使節が現在の根室市に現れたのが、寛政4(1792)年のことで、 その翌年に執筆された書籍資料です。
なぜなら、この書籍は口実筆記によるものです。では、その話を詳しく話す前に、なぜ光太夫が、ロシアに流れ着いたのかについて、『菜の花の沖』の「ロシア事情」から紐解きます。実は、大黒屋光太夫が活動していた江戸中期に当たる寛政年間は、後々「化政文化」でご存知のお方も多い文化・文政年間に至る過渡期です。
しかし、海洋流通は、遡ること100年、元禄年間から発達し続けておりました。ただ、そのなかで、様々な速達性を求める声に答える形で、航海方法が編み出されたのですが、船体の構造は江戸初期の法度で統制されたこともあり、貧弱だった関係から破船、沈没しやすかったという事情があります。
特に、横波には弱い構造は、戦国時代から改善されていないため、嘉永6年の浦賀沖に出現した黒船の衝撃は大きかったのも、納得できます。しかも、動力源は海流と偏西風が中心となるため、黒潮に乗ってしまうと、目的地にたどり着くことすら出来ない状態なることがあり得たわけです。この当時の最重要航路は合計3航路ありました。
特に、黒潮の影響が大きかったのは、次の2航路です。ひとつは、「海の東海道」といわれる南海航路、もうひとつは、三陸から陸奥に抜ける「海の奧州道中」といわれる東廻航路です。その、南海航路に江戸に向かう船として、大黒屋光太夫が乗り込んだわけです。
また、光太夫の肩書を現在に置き換えると、雇われ船長か、持ち船の船長のどちらかと考えられます。ただ、司馬遼太郎氏はそこには触れていないため、分かっておりません。少し、寄り道しましたが光太夫の乗船した船は、遠州灘で遭難に遭うこととなります。商船と言えるこの船は、紀州藩の藩米、瓦等、彦根藩の畳表ですを積んでいたため、千石船で運搬していた航路と言えます。
しかし、舵が貧弱な構造だったことから、操舵が出来なくなり遭難、黒潮に乗るため目的地江戸から遠ざかり、千島列島の北辺にたどり着きます。
当時のロシアは、農奴制を敷いていたロシア帝国の時代、特に、光太夫の頃は、開明君主として知られたエカテリーナ2世の治世で、彼女が亡くなる5年前のことでした。
最初は、カムチャッカ半島のペトロパブロフスクカムチャツキーに、留め置かれます。光太夫から20年後に、一般人でありながら、日露間の調停に動いた高田屋嘉兵衛も、ペトロパブロフスクカムチャツキーに、留め置かれています。
考えてみれば、千島列島の沖合いを漂流するなり、千島列島の無人島にたどり着いたとなれば、一番近い町は、ペトロパブロフスクカムチャツキーであり、そこに留め置かれるのは、光太夫、嘉兵衛にとっては、覚悟の上と考えられます。
ただ、光太夫は、ここから内陸部に入ったイルクーツクに、さらには、サンクトペテルブルクに行くことになります。
また、光太夫と嘉兵衛に関しては、ロシアに来る経緯で決定的に異なる点があります。実は、嘉兵衛は、ロシア船に拿捕された船の船長だったことです。これには、複雑な事情が絡みますが、後で詳しく解説しますので、省略して光太夫の話を続けます。
では、彼はいかにして、ロシア帝国から帰還の途に着いたのか、その手がかりは、ロシア帝国の事情が関係しております。当時のシベリアは、毛皮産業の産地であり、イルクーツクは発展途上の都市であったこと、そして、国是として南下し不凍港を確保したかったことがあります。
特に、海づたいで隣接する日本には、関心を抱いており、漂流してきた日本人の帰化を進めておりました。司馬遼太郎氏が確認したことによると、サンクトペテルブルクに開校した「日本語学校」の講師となった日本人は、記録ではその助手も含めて十数人を数えるほど、日本に関心を寄せていた事になります。ただ、毛皮産業の盛んな、シベリアなのですが、毛皮を必要とするのは、ツンドラとかがあるロシアから中国北部、モンゴル高原地域のみに、需要がないとされておりましたが、これが、高田屋嘉兵衛の拿捕の遠因となる事態を引き起こすことになってしまうのです。
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当時の皇帝エカテリーナ2世は、62歳で老境に入ったころとされておりました。今では、70歳くらいになると考えるのが妥当かもしれません。その前に、大黒屋光太夫が、イルクーツクに出向いたのは寛政元年で、このころシベリア総督と似た機能を持つ行政機関があり、『北槎聞略』では「その家の数は3000にも上り、商工業が盛んである」と述べている通り、一大都市であったことが、ここからも読み取れます。
そして、そこに移転してきたのが「日本語学校」で、ここで教鞭をとった帰化日本の出身者も、そこに移されることになります。
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では、光太夫にかかわった人物として、アダム・ラクスマンの父親のキリル・ラクスマンという人物です。実は、彼は博物学者であり且つ、ドイツ出身者だったとされております。実は、シベリアでの鉱物資源調査の任務を遂行していたため、このイルクーツクに居を移していたのです。彼のおかげで、エカテリーナ2世似合うことができたというわけです。
まあ、結局日本に帰還後、実際に不自由な生活を送ったという風に書かれておりますが、最新資料からは、自由に行動することができたということが分かっております。
ただ、嘉兵衛がその20年後に、日露間外交で一般人ながら、軍事衝突回避に動いたことを考えると、日露関係は今後、日本史、さらには世界史にも影響を与えることになります。
では、北方4島問題もその一つですが、白子駅を通過した後、列車は四日市駅に向かおうとしておりました。
次回は、その「日露」問題の一つで、嘉兵衛が関係した「ゴローニン事件」についてのお話となります。次回をお楽しみに。