「いこーや、なごーや」、リニア館への旅 08

本日の話題の2本目は、「鉄タビ」本編から「いこーや、なごーや」旅の第8回をお届けしますが、今回は、解説から入ります。

さて、私たちを乗せた大阪難波駅午前7時発7列車名古屋駅行き特急(甲特急)「アーバンライナー」は、名古屋駅に向かって一目散に走っていますが、皆様が気になっている点として、「どうして、高田屋嘉兵衛は、日露間の外交関係にかかわったのか?」という点です。
私たちの乗っている列車は、白子駅を通過していきますが、今回は少し寄り道という形になります。

第7回のお話では、大黒屋光太夫がロシアから帰国した過程をお話したのですが、今回は高田屋嘉兵衛が、ロシア帝国からどうして帰国できたのか、その前にどういうことが起こっていたのかというお話をしていきます。
大黒屋光太夫が帰国した後から、「日本」とどのように接触し、どのように通商を求めていくのか、通商といっても「毛皮」の市場としてみていた一部の商人から見ると、魅力的な場所だったのかそれは、定かではありませんが…。とにかく、日本と、国交を持ちたいと考えていたロシア帝国は、大黒屋光太夫をその突破口として使おうとしていたようで、そのためにアダム・ラクスマンが派遣されたのですが、この時期の江戸幕府体制は、制限貿易体制の事情を説き、「通商したいと願うのでしたら、長崎にお越しください」と説いたのです。
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そこに、チャンスと考えた人物がいました。同時代にロシア帝国の貴族として生きた人物で、グレゴリー・シェリコフという人物です。実は、「日本」の「毛皮」商品の輸出先と考えていました。ところが、実際に、毛皮製品の需要があるのは、蝦夷地のみで、考えていくと分析不足というのもいいところですが、実は、本気でやろうとしていて、彼の娘婿のニコライ・ペトローヴィッチ・レザノフという人物で、彼が実際に日本にやってきたのです。
è\¿å£ (2007å¹´7月)
ところが、江戸幕府政権は、レザノフの対応のやり方は、アダム・ラクスマンとは異なり、「通商はお断りします」ということでした。実は、アダム・ラクスマンが「信牌」と呼ばれる許可証みたいなものを受け取ったともいわれておりますが、それは、アダム・ラクスマンの父、キリル・ラクスマンが大黒屋光太夫に親切な行為を行ったことが、背景にあります。それを受けていないレザノフは、「我が国(ロシア帝国)が信牌を受けた」と勘違いしていた(実際そうだったようで)ところもあり、この対応に失望したということになりました。
では、翻って、江戸幕府政権側は、どう考えたのかといいますと、寛政年間に老中を務めた松平定信は、本気でロシアとの通商を検討しておりました。この当時、琉球との密貿易を行っていた薩摩藩も御しがたいが、北方の守りを固めるよりも、国交を開き通商を得てもいいということを考えていたそうなのです。
実際に、そう考えていたようなのです。
しかし、老中の交代により、その考えが水泡に帰したことから、「何のメリットもない」と感じた政治家が多く、レザノフから「信牌」を取り上げる行為を行ったわけです。ちなみに、さっきから出てきた言葉に、「信牌」というものがありますが、これは、長崎港への入港許可証のことを指しております。
この当時の江戸幕府政府の本音は、「この国に来るな!」という意味をあらわしております。この出来事が、文化元(1804)年旧暦9月6日から、正月をまたぎ文化2(1805)年旧暦3月6日にかけての出来事です。
そして、文化2(1805)年7月10日に、対日攻撃を決行することになります。
さて、四日市駅を通過し、列車は北東の進路を取って、名古屋駅に向かいます。

で、その話の続きですが、そのレザノフの対日攻撃で、当時の南樺太の都市(町)が砲撃され、その後どうなったのかは、桑名市に突入する次回にお話を回します。
さて、四日市駅を通過後、富田駅が次の急行停車駅ですが、そこに関しての映像はないため、次回は、桑名市の画像となります。
で、その前に、メガネの片方を模した短いトンネルのある阿倉川駅を通過して、
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私たちを乗せた「アーバンライナー」は走ります。

ということで、次回は、高田屋嘉兵衛が拿捕されるきっかけの事件の解説になります。それでは、次回をお楽しみに。