名列車列伝特集 12-8「東北圏内の寝台特急の発展に貢献した名特急! 8」

(N)さて、本日の話題の2本目は、「名列車列伝特集」の「はくつる」編ですが、今回は「ゆうづる」の話が中心となります。
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(Kt1641F)やはり、「ゆうづる」と「はくつる」の二人だけですが、ほかにも出てきますよね。
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(Hs1208F)さて、昭和47年のお話が中心となりますね。
(N)それが、昭和50年までのお話まで飛びます。ということで、「名列車列伝特集」から「東北圏内の寝台特急の発展に貢献した名特急!」の第8回です。
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(クハネ583型)では、お話をしていきます。さて、私たちが活躍していたころですが、私たちだけでなく客車の力を借りることになりました。それが何かといいますと、あるスポーツイベントがあったからです。
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(Kt1641F)もしかして…、冬季五輪の札幌大会ですか?
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(ED75型)大正解です。実は、下りが夜行、上りが昼行となる「オリンピア」号という列車が運転されていたわけで、このころから東北本線と常磐線を走る寝台特急系統は、急行列車からの格上げによる新設、増発が相次いだ年でもあります。この改正は2回ほどあったのですが、一つ目の改正が山陽新幹線の「岡山駅開業」、もう一つは、同じ年の10月のダイヤ改正でした。実は、この年の10月ダイヤ改正で、客車列車の「ゆうづる」が増発されることになったのです。この列車は先に運転されていた「ゆうづる」の補完する役目を追っておりました。まず、先に運転されていた「ゆうづる」は、列車番号が17と18列車で、系譜をたどると、昭和43年10月改正時の「ゆうづる2・1号」に行きつきます。この時に新設された「ゆうづる」は、17列車となった「ゆうづる」の下り5号の5分前に、上野駅を出る列車で、青森駅には、9時50分到着する流れとなり、同じく下り5号と連絡していた青函連絡船第11便に接続することになっておりました。
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(クハネ583型)実は、5分差で運転するというのは、実は供給過剰もいいところと考えがちですが、当時の感覚では、大量輸送使用としても、客車を牽引できる機関車のけん引力に限界があり、そのため、増発して何とかしようという形をとろうとしておりました。となれば、上野駅の近くは複々線だから、ほかの時間帯にも増強は可能だろうという見方もあったうえ、東北本線の沿線の夜行寝台特急を増やして、何とかするべきだ。といった意見もあるかもしれませんが、当時の東北本線は、夜行急行の数が多く、ほかの路線を経由する列車もいたことから、常磐線の空き容量があるため、この路線におんぶにだっこのような状態となったのは否めませんでした。しかし、考えてみると、私たちの担当した路線が、いろんな意味で、私たちが担当した運用が、取り上げられるのは、うれしい反面、複雑な事情を抱えていたことを皆様に、お伝えできればという思いからです。
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(ED75型)実は、その後も、「ゆうづる」の増強は続きます。実は、このダイヤ改正で東北本線系統を含めた寝台特急のヘッドマークが外されてしまいます。これは合理化の一環として、機関車に取り付けるヘッドマークの枚数の削減と、人員の削減にありました。そして、昭和50年3月10日のダイヤ改正で、急行列車の格上げが行われますが、実は、昭和47年から昭和54年にかけて続く「オイルショック」騒動の余波を受けてしまい、食堂車などの営業が休止されるなど、その影響が徐々に広がっていくと同時に、昭和45年以降に大量輸送の可能性を見出された航空機輸送が、対北海道輸送の主力となり、今まで北海道輸送を担ってきた青函連絡船によるルートは下火になり始めようとしておりました。
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(Kt1641F)ということは、昭和50年代を境に、いろいろと変わっていくということになるわけですね。
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(クハネ583型)そう、私たちが衰退の時代に入る最中、その可能性を広げる新たな模索が始まろうとしておりました。実は、私たちの運用する列車が最初に出発するのは、午後7時50分でした。ところが、一番利用客の多かった午後3時及び、午後4時に上野駅を出る「はつかり」の下り最終便となる「3号」と、「みちのく」がそれですが、この時間帯が、後々に新幹線で上野駅を出発する列車の枠に、私たちの代わりに夢を託した発展系統の寝台特急が、担当することになります。次回のお話は、昭和50年代ダイヤ改正以降、車両の更新と、見えてきた課題について、お話していきます。
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(Hs1208F)今度は…どこまで行くのでしょうか、気になりますが…。お楽しみに。それでは。