一三さんが追いかけた夢(阪急レールフェア) 07

本日の話題の2本目は、「鉄タビ(臨時便)」から「一三さんの追いかけた夢」の第6回です。

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さて、私と天空氏は、正雀工場内を移動中です。
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抵抗器などを撮影を行っておりました。共通化が行われていたのは、6000系から始まりました。ところが、デザインを共通化させたのですが、デザインの共通化はその次の系列から始まることになりました。それが、
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7000系と7300系から、共通化が始まりました。
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では、どうして、神宝線系統の共通化が始まったのか、この理由には、神宝線の成り立ち路線環境が大きく影響しております。もともと、「箕面有馬電気軌道」を母体とした阪急電鉄ですが、数々のアイディアを生み出す小林一三氏が、社長に就任した後、沿線住宅開発に力を入れることで有名となります。しかし、宝塚線の路線自体は、福知山市に向かう丹波街道の宿場町を通るため、曲がりくねった道を走ることから、カーブが多く、雲雀丘花屋敷駅付近は、勾配区間もあることも背景としてあるため、高速で運転することが要求されていませんでした。
ところが、逆に阪急神戸線もとい阪神急行鉄道神戸線は、阪神電鉄に対抗することを基本としていたため、主に直線を多用した路線であるため、スピードを出すことが求められた点が異なっておりました。
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そのため、それぞれの路線で使用する車両を変えていたのですが、共通化するきっかけとなった車両が、昭和50年に誕生することになるわけです。それが、
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6050番こと2200系でした。当時は試作車的な要素があり、現在は、神戸線をひっきりなしに行きかう列車を受け持つため、中間車両を後継の7000系で固め、ほかは、この系統を軸に製造された6000系の中間車両として、現在も活躍していますが、この車両が次世代の標準車両とすることを柱とした阪急上層部は、今までの路線ごとに車両を製作するということをやめ、神宝線の格差をなくし、統一する方向にもっていこうということを決めることにしたわけです。
イメージ 7一方で、京都線は共通化できない悩みがありました。それは、大阪メトロこと、大阪市営地下鉄線への乗り継ぎを考慮する必要があったためといわれております。2300系の後継車両となる3300系の誕生経緯が大きくかかわってくるのですが、その話を始めると長くなるので、関連資料を公開されておられるユーチューバーさんがおりますので、そこで検索していただくと、動画を見ることができます。
イメージ 8軽く要点を申し上げますと、100mmほど車体周りを大きくし、大阪市内の地下鉄と同じ体積にして、大量輸送を行っていただきたいというのが、大阪市営の要求でした。
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では、他私鉄でのデザイン共通化の場合、どういった事情があったのでしょうか。
関西大手5私鉄の中で、車両デザインの共通化を迫られた私鉄には共通点があります。主に三つありますが、1つは路線が広範囲にわたること、2つは、それぞれの路線の成り立ちが大きく異なること、3つは路線自体の性格が大きく異なることです。
この要件を満たす鉄道は、阪急を除くと、この二つです。
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一つ目は、近畿日本鉄道です。実は、近鉄は、路線ごとに車両を製作しなければならなかった事情があります。一つは、長距離を担う路線と、中単距離を担う路線が共存していた関係があり、なかなか車両のデザインを共通化することができませんでした。
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一部の特急列車に使用する車両は、車両限界に対応できない区間が存在したため、昭和48年まで幅の狭い車両が使用されておりました。その対応していなかった区間とは、大和西大寺駅と橿原神宮前駅を結んでいた橿原線です。橿原線は、もともと設備が整っていないこと、言ってしまえば、架線を支える架線柱の幅が、狭かったこともあって、車両限界が狭かったこともあり、幅の広い特急車両を走らせることができなかったこともありました。

では、通勤車両のデザインの共通化は、いつ行われるようになったのか…、それについては、次回に回します。ということで、次回をお楽しみに。