伊勢初詣旅「続・伊勢賑わい道中旅」 03

本日の話題の2本目は、「鉄タビ(臨時便)」から「続・伊勢賑わい道中旅」の第3回です。
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大阪難波駅から鳥羽駅行特急(乙特急)で、伊勢市駅に到着したのですが、
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伊勢神宮外宮に向かっていきますのですが、実は伊勢神宮外宮は以前にもご紹介したのですが、実際に天皇陛下がご参拝なされたのが明治時代に入ってからでした。しかし、だからと言って、実際「京」から「斎宮」の関係がどうだったのか…、それについてもお話です。実は、実質上の「斎宮」が機能していたのは、何と室町時代の延元元(1336)年ということになります。どうしてなのかといいますと、未婚の内親王または女王(内親王)から候補者を選び出すこと、それと未婚だからということは、処女という関係があったことも大きかった可能性があります。
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実際に、斎宮一連の行事ができなくなったことも、その一因にあるといわれております。では、その一連の行事はどうなっていたのかといいますと、下のようになります。
①卜定→②初斎院→③野宮→④群行→⑤退下
となります。
まず、①の「卜定」は、占いで斎宮を決定した後、大内裏の殿舎(時々により異なる)に斎宮が住まう最初の場所となるのですが、これが「初斎院」という行事です。そして、ここで汚れを掃うという行為行わなった後、斎宮のために一時的に造営される殿舎において「野宮」と呼ばれるものですが、ここで斎宮は生活していました。
そのことに関しては、『源氏物語』でもこんなエピソードがあります。前東宮と六条御息所の間に生まれた姫宮(後の秋好中宮)が「」帖で斎宮となったため、主人公の光源氏と別れるシーンです。これは、著者である紫式部が、この行事に関してのことを知っていたからか、エピソードに入れたと考えられます。
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おそらくですが、彼女の人生の中の出来事に、斎宮の交代があったと考えられます。
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それゆえ、この後は、伊勢神宮への下向となるわけです。その後、退下はどのときに行われたのかというと、天皇の譲位、または崩御により、都に戻るということが条件の一つなります。実は、斎宮が機能しなくなった理由のもう一つの理由として、斎宮候補を選ぶ「卜定」自体が行われなくなったのもあるとされております。時代は、平安後期、公家から武家への過渡期の時代に、都での戦乱が多発したことから、政治の主導権と武力の一体化が起こるとともに、「平治の乱」終結以降、少なくとも700年間は武家政権で会った関係もあり、「斎宮」の意味がほとんど失われることとなってしまったわけです。
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で、その斎宮が廃止された後は、どうなったのかですが、これについては、記録が残っていませんが、類似例としては「葵祭」で有名な、賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の「斎王」の例があります。
ただ、この「斎王」についても承久の乱を経て、「斎宮」、「斎院」に関しての予算が組めないことから、途絶されたということが明らかになってきます。
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結果的には、「無駄な伝統行事は”廃止”する」という考え方は、古今東西どこでもありうることだというわけです。さて、結果的にですが、「斎王」は祭りの中で一般女性が禊を受けて、出るというスタイルが戦後に確立されますが、これは、今までの一連の行事とは異なり、地域の活性化が目的という話になるため、本来の意味からは逸脱しているということになるわけです。
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というわけで、早々に外宮参拝を終えて、五十鈴川駅でバスに乗り換えて内宮に向かいます。
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さて、JR東海の伊勢市駅を抜けて、近鉄山田線の伊勢市駅に、ここで朝食をとった後、
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2800系2813編成の鳥羽駅行急行で、五十鈴川駅に向かいます。
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そこで、12400系の回送列車に出会うことになりました。
ということで、次回は内宮に向かいます。ということで、次回をお楽しみに。それでは。