京都のイメージは勘違いだらけ2

「1」からの続きだが、そこで「平安京は未完成都市だった」と述べたのであるが、その時の都市計画とはどういうものだろうか、それを書いていきたい。
平安初期の都市計画は、城郭で区切られているようにしている。ただ、中国のように、区切ると言うことではなく、塀のみで区切るというものである。
ただ、商業に関する東西市が計画されており、他にも東西の寺院が建立された都市が、平安京には備わっている。
しかし、都市国家制度にはなかったものが平安京にはあった。それは…、

農地!

である。それは、「都市に農地を設けてはならない」と言う規則である。
その規則がある理由は、当時の憲法とされる律令での都市の機能は、

「都市とは、人の住む住居空間であり、政務をおこなう場でもある。」

という認識があった。だが、平安京にはそれと反する農地が西側に広がっていたというのである。
現在の太秦等がそれに当たる。
つまり、農地と都市が混在する都市、それが、平安京だったのである。
では人々は、どこに住んだのかと言う疑問があるが、中央通りの役目を果たす朱雀通りより東側、現在の京都市市域に当たるのである。
そこに人口が集中しているということは、多くの人は東側をこのんで住んだことになる。そこには鴨川が流れているのである。
白河上皇は、

通りにならぬ 犀の目、荒法師、鴨の川

と言うのである。
つまり、川で暮らしていたということである。その周辺に人々が集まって自然に都市ができた。
それが、古代京都の始まりとなるのだが、さて第3回目は、平安京以降どうなるかについて、書いていきたい。

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