饂飩と蕎麦から東西を見るなら。

東西の垣根は、食文化にも大きな影響をもたらした。中でも、饂飩と蕎麦の関係は面白い。どちらとも、麺だからのど越しがよいのは当たり前だが、この東西の対比を歴史的に考えてみたら面白いかもしれない。
まず当然のことながら、麺料理として、饂飩と蕎麦の歴史は長くあいまいな部分が多いが、蕎麦の場合は、奈良時代の初期に当たる養老7(723)年の「類聚格式」と呼ばれる書物に、蕎麦の栽培を命令した記録があり、饂飩については奈良時代から鎌倉時代にかけての長い期間のいつごろかに伝来したとされており、どちらにしても日本の食べ物ではなかった。
しかし共通点は、庶民に広く食べられるようになったのは、江戸時代に入ってからと言う点である。

まず、蕎麦から先に述べていこう。今のようなスタイルになったのは、江戸時代初期、すなわち、慶長8(1603)年から江戸時代に入るため、おそらく、元和(1615~1623)年間から寛永(1624~1643)年間にかけての書物、特に歴史書に見られる。そこから現在のスタイルが確立された。
対して、饂飩の場合はどうかと言うと、それに近い歴史がある。
この饂飩も、江戸時代初期に江戸で好まれていた上、その江戸時代に同じ食べ物として普及していたことになる。

だが、東西比較するうえで、饂飩と蕎麦の御供として、出汁の種類が異なると言うのは知られている。関西では、昆布を主とする「白だし」が主流に対して、関東では、鰹を主とする「鰹出汁」となっている。
しかし、、饂飩、蕎麦共にその地域分けについては複雑怪奇で、「西は饂飩、東に蕎麦」というのは当てはまらいと言われている。
例えば、富士吉田に饂飩があり「吉田の饂飩」と言った愛称があり、関西では兵庫県に「出石そば」と言う蕎麦もある。

出汁などで考えると、東西の色分けはつきやすいが、そこから次は、流通経路について考えてみたい。
この二つだしができたのは一体なぜか、それは、当時の流通経路が関係している。まず大阪は昆布文化に欠かせなかったのが、西回り航路である。
西回り航路とどう関係があるかと言うと、当時、昆布類は松前藩が、アイヌとの貿易を行っていて、それと日本海側を回る航路として、西回り航路が整備されたこと、それから、当時の大阪が日本の大経済都市だったということ(これは、「食いだおれとは…食だけか」で…)があったためとされている。
それに比べて、大消費地の江戸では、そう言った航路の発達だけでなく、鰹節などが流通することで、文化が育まれたと言ってよいのかもしれない。それと、もうひとつ、関東は醤油との生産が盛んであったことも、両方の違いにあったと言われている。
ともあれ、東西の個性的と言える食文化、これは、江戸時代という一つの時代によって作られたと言っていいのかもしれない。

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