タイトル:「広州軍」北田一美 13

その前に、合肥合戦の様子を、ここで書き起こしておきたい。実は、この合戦については、多くの史書が残されている。
当時、合肥コロニーの守備についていた人物は、汪叙経の弟で、汪叙格であった。この弟は、上海包囲作戦で負傷した人物である。その男がこの地で治療を受けていたのである。それが、この合肥コロニーを救う事になったのだが、彼のスタイルは、
「敵陣に単騎で飛び込む!」
と言う攻撃スタイルであったので、包囲戦ではそれが裏目に出てしまったと言う事で、決死隊の隊長として、前線に立った。所が、『大波』政府軍が上海基地の口を完全に閉ざした籠城戦闘に突入している。その経験を踏まえた上で、今回の合戦に臨んだのである。
合肥対岸の儒須口コロニーに軍が集結していた事から、そのすべてが始まる。まず、『大波』討伐軍が北上を開始したのは、P.W.1610年7月25日の事だった。実は、一美は7月20日に広州を発っていて、その5日後にはチベットに着いて、儒須口コロニーに軍が集結しているとの情報を得ていた。一美は、大波軍が、戦線を有利に進めるだろうと予測していた。
所が、実際はそうではなかった。
まず、地球側方面から、第5連隊と第8連隊、南京側からは第6連隊と第9連隊、南昌方面からは、第12,15連隊が攻め上がっていたのである。
それに対して、少し少なめの兵力配備で固められていた合肥、最初の戦闘が起きたのは、南昌方面、その南昌方面の扉をこじ開けられたのが、事の始まりだった。
それから、とんでもない事態が、討伐軍側に起きる事となる。
それは、開けたのはいいが、なかなか、城の中にはいられないと言う事態だった。つまり…、城兵の士気が高くなっており、門の先がまるでぎゅうぎゅう詰めにされた酢飯を想像する事が出来る。その米粒が拠点を守備している兵士だとしたら、それに立ち向かう兵士たちの士気はそれよりも低下しているのであろうか。
そうなら、そこから先が、なかなか進めないと言う事になる。だから、そのほかの部分でも同じ事が興っていた。つまり、籠城していると見せかけて、その包囲網を崩すと言う作戦に、彼らは転換していたのである。
一方、これに驚いたのが、討伐軍の司令官だった。これでは、合肥コロニーに入ることすらできないのは、予想外だったのである。
これでは、制圧自体も難しい。それを想定しなければならない状況に、討伐軍は追い込まれていたのである。その攻防は6時間ほど続き、その間に、討伐軍の兵力は低下と同時に士気も低下したのである。
これで、地球側を責めていた一角が崩れたのを皮切りに、攻撃が中止されたのである。この1日がこのような状況であったが、2日目も体制を整え直して、再び攻撃を仕掛けているものの、同じ所から攻撃を仕掛けられる為に、守備側にとっても、討伐側にとっても、気力が尽きるまでの耐久レース的なものになってきた。3日目、4日目、5日目も両軍は衝突し、一進一退が続く、そして7月31日、『紅巾』軍側が、討伐軍の主力を叩き、総崩れとなったのである。
こうして、P.W.1610年8月1日に、合肥合戦は5日間の攻防を経て、守備側の『紅巾』軍の被害は、5万の兵力に対して1万2500人、攻撃側の『大波』政府対『紅巾』討伐軍の10万の兵力に対して2万8000人の兵士を失う結果をもたらした。これには、徐州にあった『紅巾』軍本部にも届いたのである。それによって、穂積達が、対応を話し合う効果ももたらしたのである。
その頃、一美たちは、チベットにい残ったまま、多くの政治家、経済界の人物たちにあっていた。時期は8月に突入し、長い旅になったのである。

その一美は、チベットを動かしている政党の党首から、世界の流れがどうなっているのか、と言った情報を集めていた。
実は意外に、チベットは世の中の情報に、日ごろから敏感になっていた。理由は周りを取り囲む国々にあって、インドコロニー王国と隣接していて、それが天王星を回る軌道にあるが、その地点は、大分、離れた所に位置している。実は、この広州、福州など沿岸のコロニーは、木星、火星、地球、金星等の軌道および、その一帯に散らばっていて、それが中華と言う地域を形成している。それゆえ、天星等の地域等を回るインドコロニー、その所とはまた別の軌道に位置するイランイスラム帝国があると言う事である。
それだけでなく、その太陽系の外側にも多くのコロニーがあり、それぞれ、同心円状の軌道を描きながら、太陽の自転に即して回っていると言うのである。
つまり、その中で、多くの情報を集める事で、国はおろか、時代の流れをつかむと言う事をしていたのである。誰が、この時代をリードするのか、それが、この時代に問われていた事だった。
それを、的確に見抜く能力が求められているから、一美は、彼らに会ったのである。まず、1人目の代表者からは、
「おそらく、地方の衰退が著しいことは、疑う余地が、ございません。それと、ヨーロッパ方面でも、イギリスとオーストリアの対立が激しさを増しておりますし、それゆえ、『大波』、イランイスラム帝国を支援するオーストリア、イスパニアの両国家にしても、現在、財政が悪くて、各地で反乱、暴動などが興っており、特にバスク地方では、反乱が興ってから数年もたっていると言われております。」
と一美に答えてくれた。彼の名は、朱孫と言う人物で、朱家はもともとを朱元璋からの系譜としていた。しかし、現実に、朱元璋は明帝国(A.D.1368年からA.D.1644年)の王家であり、その王家は、A.D.1662年に一族もろとも断絶するのであるが、この朱孫は、おそらく別の朱家に属していたと、後々、造られた記録に書かれていたようである。
朱孫は、さらにヨーロッパに留学していた経験があり、その事情についてはかなり詳しく話してくれたようであった。
「となりますと、我々は、その国々の対立を利用して…?」
と一美は、言いかけたが、朱孫は、
「それとは、少々異なりますが、その2つの勢力とそれに付かない第3の勢力が、存在しているので、その勢力の動向に注視し、時を見計らって、事を起こすと言うのが大事かと存じます。」
と答えた。さすがだと、一美は手を叩いて、
「ありがとうございます。大変参考になりました。これで、迷いはございません。」
と答えて、朱孫に頭を下げた。
それに朱孫はどうしたのか、一美を呼び止めた。
「一美様がやろうとしている事は、何かは、言われなくても分かるような気がします。何を持って行動するかは、あなたの胸の内でしかわかりません。ですが、その行動は一つだけだと思います。反乱を起こして、『大波』と言う国家事態を潰す事も、頭にあるでしょう。しかし、宗教だけで、判断する人間が多いのもまた事実です。だからこそ、あなた方が、多くの人々をどの方向に導くかという目的も明らかにしなければならないのです。」
その言葉が、一美の胸に深く刺さった。そうだ、人々はいかなる点を基準にするのか、それだけで、状況は変わってしまうのである。それを、考えていなかったのではないが、朱孫はそれに対して、もう少し人々の心を聞いてみては、どうかとアドバイスをしたのである。
「ありがとうございます。この言葉を胸に刻みます。」
一美の眼には涙が、浮かび始めていた。

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