丁度40年前の今頃…。後編

さて、続きですが。

「あさま山荘事件」は、偶然にも長野県に越境した赤軍派メンバーがあさま山荘を発見した事によって、犯人側の運命を決めたという事件と言っていいかもしれません。

まず、彼らはその近くにあったさつき山荘(無人)に逃げ込むも、長野県警が犯人グループを察知して、あさま山荘にたどりつき、管理人の妻を人質を取って立てこもったのが、事件事態の発端です。

その間、警官隊との銃撃戦(この時、犯人側が使用したライフルは真岡銃砲店襲撃事件で、強奪された狩猟用のライフルと判明している)も展開していた彼らにとって、あさま山荘での籠城が、残された選択肢だったのは、運命のいたずらだったのかもしれません。

そこで、軽井沢のあさま山荘の付近を機動隊が包囲、その中で犯人側は、銃の発砲で回答するというような膠着状態が間に挟まれるというようにして、事件はむなしくも時間の身が過ぎると言った状態になっておりました。
その中で、偶然にも包囲網を突破した一人の民間人(男性)が犯人の放った凶弾によって倒れる(数時間後に亡くなりました)と言う事態に直面し、当時現場指揮を執っていた警視庁警備実施及び広報担当幕僚長の佐々淳行氏(後に初代内閣安全保安室長に就任している)は、苦境に立たされることになってしまいます。後藤田正純警察庁長官(なお、後藤田正純氏は後に副総理兼法務大臣や官房長官として知られるようになる)は、この事態を重く見て長野県警主導の捜査から、警視庁主導の捜査に転換すると言う、陣地変換を行うと同時に、奇策を用いて、対応に当たったと言うそうです。それは、山荘をつぶす勢いで、犯人側の分断を狙うというものであり、兵法の「兵とは詭道なり」を実践した形だったと言えるものでした。
その一つが、鉄球による作戦と、エネルギー(電気、水道、ガスなどのライフライン)の停止による兵糧攻めと言われるものです。実際に人質は2階と3階に分かれていた事が後に判明しますが、それによって、犯人側の疲労困憊の状況に陥る事になっていきます。
それから、2月28日の午後6時10分に人質の救出と犯人の逮捕で決着したのです。

では、この後の学生運動はどうなったのか…という問題が残ります。実は、前回の冒頭で「ノンポリ」の言葉を出したことを思い起こしてください。つまり、「政治に無関心」な大学生が増えたのは、この「東京大学安田講堂占拠事件」と「あさま山荘事件」による警察との衝突によって、国家権力と戦う事=社会と戦う事と理解された可能性があり、過激なものには巻きこまれたくないと言う思想が芽生え始め、大学生の政治に対する無関心につながったと、述べる大学教授もいると言われております。ただ、戦後40年になるかならないかのこのタイミングで起こった社会事件史上最大級の事件と言われるこの「あさま山荘事件」は、事件が解決して40年たった今でも、人々の記憶に残っているものと言え、さらに、これからも伝えなければならない。事件と言う性格を帯びている事件だったと言えるのかもしれないと私は考えてしまいます。

まさに、人々をくぎ付けにした事件である「あさま山荘事件」、現在では関連著書が、警察、犯人側の視点から様々な形で出版されており、映画、DVDなどが販売されております。

ただ、此処で、私はこの事件は今の日本社会にも当てはまる閉そく感の打破と、そのはざまで葛藤した過激な学生たちの戦いとも見ないといけないだけでなく、その中で、若者のエネルギーをいかにしてくみ取るのかと言う課題も突きつけられたと思うのです。
現在にあてはめると、就職難等で大学生があえいでいる中、本当に彼らが求めているのは何かを、企業側も見抜くことは大切である事は言うまでもありません。しかし、今となっては、そう言った事がないがしろにされてしまいつつあると言えるのかもしれません。次の世代にそれを託せる世の中を、そう願いたいのはだれとて同じではないでしょうか。

最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。

出典:ウィキペディア「あさま山荘事件」など

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