名列車列伝特集 15-02 「九州男児の本懐ここにあり! 九州の幹線を結ぶ特急 02」

(N)さて、本日の話題の2本目は、「名列車列伝特集」の「有明」編の第2回ですが、今回は戦前の話を後編に入ります。実は「有明」の名前はまだ出てきません。ご了承ください。
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(Kt1641F)あの、今回も「有明」の名前は出てこないのですよね。
(N)残念ながら、その通りです。ところが、この列車が戦後に、登場した列車と関連してくるのです。
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(Hs1208F)さてさて、今度はここから、どのように発展していくのでしょうか。それに、今回のお話では、九州の特急列車の礎が築かれることとなるのですよね。
(N)その通りです。まあ、ゲストのC11さんよろしくお願いいたします。
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(C11型)ということで、皆様お待たせしました。「九州男児の本懐ここにあり! 九州の幹線を結ぶ特急」の第2回をお届けします。
さて、話は戦前の鹿児島本線の形成過程で、九州初の急行列車系統ができてきました。当時は、半日をかけて路線を走破していた鹿児島本線(肥薩ルート)に急行列車が走っていたのですが、それが大正6年のダイヤ改正で、スピードアップができるようになりました。当時13時間かかっていた門司港駅を午前10時45分に出発し、鹿児島駅は午後8時46分到着となるので、所要時間は10時間となりました。それが、旧ルートの設定では最後となり、その翌年には、2往復に増強されていました。後者の方は、午後10時15分に門司港駅を出て、翌朝の8時25分に鹿児島駅到着。上り便は、午後9時30分に鹿児島駅を出発、門司港駅には、朝の7時55分に到着することになります。そして、鹿児島本線系統と長崎本線系統の急行の分離が行われるのが、関東大震災の発生した大正12年のことでした。そのため、10時間を切ることなったわけです。
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(Kt1641F)一つ気になるのですが、当時の急行が、10時間切るといっておりましたが、肥薩線ルートの関係で、大きな峠を越えると聞いたことがありますよね。その点はどうしていたのですか?
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(C11型)確かに、大畑駅を含むルートでしたから、牽引できる客車の数も限られていたといえます。おそらくですが、最大で4両くらいだったかもしれませんね。さて、大正から元号が昭和に改元された後、鹿児島本線の基本ルートが開通し、門司港駅を9時ちょうどに出たら、鹿児島駅には午後6時50分に到着するため、10時間切りを果たしました。そして鹿児島本線のルートが確定して以降は、急行が時間短縮へと向かい、昭和4年に、8時間40分の所要時間をたたき出したのですが、実は夜行列車は、滞在時間を短くしても効果がないということから、逆に所要時間が長くなるという取り決めとなったわけです。実際に、鹿児島本線はお昼の時間の利用率が高いのは、今も昔も変わらなかったわけですが、それには、戦争が影を落としてきたのです。昭和4年に発生した「世界恐慌」に端を発した昭和恐慌のあおりを受けて、昭和6年の満州事変、国内でも戦争拡大の日本軍の暴走を食い止める手立てもなく、戦争の真っただ中を進むことになってしまいます。
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(Kth1104F)結局戦争が、原因ということですか、とんでもないことになりましたね。
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(Hs1208F)それが、この時代の流れだったわけですね。しかし、この後、鹿児島本線の急行列車は、普通列車となってしまったのですよね。
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(C11型)確かに、その通りです。そして、その運転が復活するのは、戦後に入ってからです。次回のお話は、その戦後編をおお届けします。次回をお楽しみに。


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